現世の人間とのかかわりに空虚さを感じるのはどうしてか[422/1000]

現世との人間のかかわりに空虚さを感じてしまうのはどうしてだろう。だれかと出会ったから、なんだというのだ。その場かぎりの感情や、陳腐な考えをぶつけあったところで、何の意味があるというのだ。人間の出会いは無条件に尊いと言うが、そこに魂の重みがなければ、どうしても虚しさが勝ってしまう。虚しさを感じることが増えると、人とのかかわりを避けるようになる。一人でいる時間が増え、確かな重みを求めて読書をする。読書をしていると、魂の重みを感じられ、魂の重みこそが人間の本質であると感じるようになる。現世に感じる虚ろとは、失われた魂の重みである。実態はあれど中身がない。次第に、既に実態が失われていようと、魂の重みがある書物のなかに本物を感じるようになる。

そんなことを感じている自分を、幽霊みたいだと思ったのである。肉体がありながらも肉体のない世界に本物を感じる。

 

現世が虚ろになるのは、自分自身に原因があるだろうと思う。いつも現世の人間とかかわるときには、魂の乖離を感じるのである。ここで言葉を綴るときには、確かに存在する重みも、心と声帯を通して現世に解き放たれるときには、どこかに失われてしまう。いっそ言葉など捨ててしまい、黙って花を差し出すほうが、ずっと深い繋がりを得るようである。この魂の乖離が起きるのは、肉体が傷つくことを怖れ、魂を放棄しているからだと思う。それが嘘っぽさとなり、現世の人間とかかわる自分がますます嫌になるのである。

 

どうすれば魂を肉体につないでおくことができるのか。現代の道徳は、価値観とか、多様性とか、受け入れるといった軽々しい偽善に満ちている。アランは、「魂とは肉体を拒絶する何かである」と言ったのだ。受け入れることばかりではなく、時には厳しい言葉で拒絶する関係を避けるかぎり、魂は肉体から離れていくにちがいない。腑抜けた関係は、現世を虚ろにしかしないのだ。それが嫌なら、もっともっと覚悟がいる。歴史の必然のもとに自己の命を積み重ねる覚悟。必然を常に見つめ、それだけを強く信じて生を連ねる覚悟。厳しい言葉のもとに関係を築き傷つく覚悟。

まだまだ未熟であった。幽霊になるのは、死んでからでいいだろう。本はもちろん読み続けるが、肉体のあるうちは、現世の真実に触れていたい。

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