自己肯定感の嘘。自分を忘れること。[559/1000]

貧しい時代の話はどうしてこうも泣けてくるのだろう。

先生は「これで好きな作文でも書きなさい」と言って、新聞紙に包んだノートを少年に差し出す。少年は「かあさんに叱られますから」と言って、何度も受取を辞退する。それでも先生が「人からの贈り物はもらっておくべきです」と少年を諭し、少年はようやく贈り物を手にする。

少年はノートを頂いたことがよっぽど嬉しかったようで、引き出しにたいせつにノートをしまうも、何度も引き出しをあけて、もらったノートを嬉しそうに見ては、作文に精を出すのだ。

これは、島崎藤村の「破戒」の一場面である。少年の素朴な歓び、健気さ、無邪気さ、生活の労苦と不幸のなかにあるやさしさ、人間の絶望に屈しない幼き生命と無垢と羞恥。今日を思えば、たかがノート一冊である。だが、この一冊のなかに、どれだけの人間愛と苦労と涙が詰まっているだろう。

 

***

 

隠遁中、私の情報源は、スーパーから調達した資源用の古新聞であった。そのときに見つけた、98歳で弁当屋を営むおじいさんの話が印象的であった。戦中戦後、満州で捕虜になったとき、料理係として務めるも、大鍋のなかに閉じこめられて全身やけどを負ったという。帰国後、GHQの本部でコックとして働き、マッカーサーを目にしたこともあったという。その後、東京で弁当屋を開業し、今日まで毎日コロッケをあげている。

一緒に新聞に載っていた、満州時代の敬虔な顔つきが私の印象に深く残った。というのも、裏面に載っていた”ぼくの自慢”みたいなコーナーの小学生との写真の対比があからさまであったからだ。言葉は悪いが、少年のニヤけた表情は、大人の顔色をうかがうような、ずる賢さを感じるもので、書かれている内容も(これは少年を侮辱するわけではないが)年齢と照らし合わせてみても、掲載に値する真っ当な言葉には思われなかった。

夕飯時に家族そろって新聞に載った子供を褒め称え、喜んでいるのを想像すると、なんだか気持ち悪い社会だなと思ってしまったのである。

 

自己肯定感なる言葉があるが、これはエゴイズムの生んだ幻想である。自分を認めるだの認めないだの、どちらにしても行きつくのは自己固執しかない。自己肯定感が「ある」と言うものほど、エゴイズムが完成している者もない。

真に自己を肯定するのは、自分のことを考えない時であるとは、誰の言葉であったか。自分よりも大きなもの、国の歴史や民族精神、世界文化を真剣に考えているとき、自分のことを忘れる。そんなときこそ、真に自己を肯定する状態である。

三島由紀夫の「金閣寺」に吃音の少年が出てくる。「君は自分を大切にすると一緒に吃音まで大切にしている」というセリフは誠に、自己肯定感の自己矛盾を言い表した言葉だと思う。

 

「自分を大切にするな」こそ、隠された道徳、救済の道であり、これが貧しさの中に気品を見出す、日本人の気質、感性と織りなされた結果、冒頭で紹介したような少年の健気さや、日本人の「清貧」なる麗しき国民性が生まれたのではなかろうか。

エゴイズムでも、”神聖なるエゴイズム”、”敬虔なるエゴイズム”という言葉を問いのきっかけとして書き添えておこう。

 

2023.12.31

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