隠遁生活の疲弊/時間の哲学[515/1000]

魔の山を二週間かけて読み終えた今、ある種の燃え尽き状態にある。

 

あまり本を読む気にならず、かといって薪を割るくらいしか他にやることもないので、適当にからだを動かしたあとは、虚空を見つめるようにぼうっとし、火を起こしては、永遠にそれを見つめている。

オーストラリアをヒッチハイクで横断したときに乗せてもらったインド人の二人組や、東南アジアを旅したときの、美しい宿娘のことを思い出しては、久しぶりに旅の風に吹かれたいと思い、少年時代の友を思い出しては、齢30を前にして、どこで何をしているのだろうと、どうにもならない物思いにふけたりする。

 

これ以外にも、心は無限の過去を彷徨し、これまでの人生で出会った思い出せるかぎりのすべての人を思い出しては、くだらない出来事に笑えてきたり、反対に自分の至らなさに恥じて、穴があったら入りたい気持ちになる。

過去の時間はそこで停止し、「現在」に美しく再生される。孤独は”記録”よりも、”再生”と相性がいいようで、人との出会いを紡がない代わりに、過去の出会いを呼び醒ませる。

 

まったく人生を彩り、豊かにするのは人間との出会いだなと思うと、隠遁生活も少し寂しく思えるものだ。

 

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過去は過去として消滅したのではなく、「現在」に思い出せるかぎり、今も生きているといえるだろうか。時間の中で人間は進歩し、変化しているようで、実は、無数の時間の中を同時に生きている気もする。繰り返される日々についていえば、昨日は今日であり、今日は明日といっても、実はそこに生じる支障など何もないのだ。

 

圧縮され、引き延ばされ、消滅したり、追憶のなかに生きつづけたりする。こうした時間の神秘を思うと、「生」というものの不安定さが際立ってくる。仮にいま30歳であろうと、気づけば60歳になっていたなんて、時間の気まぐれも起こりかねない。

なぜなら「気づけばこの年になっていた」という現象は、現に多くの人間の今の状態に当てはまることだからである。時間の体感などまったく当てにならないことを考えると、「実年齢」が示唆する「人生の残り時間」など当てにならない気もする。

 

私が旅を愛するのは、旅は時間にたしかな重みを与え、永遠に生きつづけてくれる信頼を置いているからである。トーマスマンの言葉を応用すれば、人生を人生のために捧げることこそ広義の「旅」であり、人生を体験のために生きることは広義の「生活」である。生活の回転のなかでは、時間はあっという間に過ぎていくだろう。

 

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10月からはじめた隠遁生活も、一カ月半が経過した。ちょうど、燃え尽きと重なって、この生活はもう十分だと思えるほど、私はこの生活に疲弊している。しかし、今年いっぱいはこの生活をつづけると決めたのであるから、12月末まではつづけよう。

極寒と孤独を、火と書物によって克服する時間は、きっと重みのある時間になるだろうから。

 

【書物の海 #45】草枕, 夏目漱石

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 

2023.11.17

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