自己中心性からの脱却について[234/1000]

自己中心性からの脱却は、魂を懇願する現代人にとって大きな苦悩である。人に好かれたい、幸せになりたい、美味しいものを食べたい、楽しい思いをしたい。こういった価値観が当たり前のものだと社会で認められ、メディアを通して日常化されるにつれ、生は水平化の一途をたどり、自己中心性に吸い込まれやすい環境にある。

エーリッヒ・フロムは、著書「愛するということ」で愛することは自己中心主義から抜け出すことだといった。私も現代にどっぷり浸かって自己中心主義を押し通してきた現代人である。自己中心性とは何かを問いながらも、問うことも実践することも、自己中心性から発せられるという途方に暮れるような時間を過ごしてきた。むろん、それすらも自覚されないのだが。

昨夕の瞑想で、この自己中心性の外にある感覚を体験したので、センセーショナルな文もあるが、恥を忍んで、書き留めたそのままをここに残そうと思う。

 

精神修養 #144 (2h/296h)

あった。あった。ここにあった。霊性心があった。内側じゃなくて、外側にあった。呼吸の先のすぐそこにあった。決して自分の内側にあるものではなかった。

それを感ずるとき、呼吸はかつてないほど烈しくなった。決して穏やかで静かな呼吸なんかじゃなかった。激しいよりも烈しいと言う言葉がぴったりだった。人生史上もっと烈しい呼吸をするこの肉体に、霊性心が注入されてくるのを感じていた。一切の操作はない。呼吸はただ烈しさのままに、時を忘れ、肉体を掻き立てた。

 

ここから理性の話になる。

思えば霊性心などは、肉体のものではなく、宇宙の根源である。ここでいう霊性心は、俗にいう宇宙霊や魂や暗黒流体や神と呼ばれるものである。

この宇宙エネルギーが肉体との摩擦によって心が生じると言っても、自分の内側、つまり肉体上に生じる心というのは、本能心や理性心など、肉体摩擦をベースとして存在する心しかありえないのだ。つまり霊性心は、どれだけ自分の内側を探しても存在しない。

 

では霊性心はどこにあるか。それは自分の内側ではなく、自分の外側である。自分の外のこの大きな宇宙すべてに霊性心はある。だから自己中心性を抜け出さなければ、絶対に感ずることはできなかったのだ。自己中心性から発する心というのは、どれも本能心や理性心なのだ。どれだけ魂の問題を考えても、自己中心性から抜け出さなければ、霊性心を感ずることなどできなかったのだ。

 

実を言えば、この霊性心も感覚としては既に過去にも自覚されていたものだった。ただ、これが霊性心だという本当の自覚は成し得なかったのである。自覚ができるかできないかは、再現性にかかわってくるように思う。

どうして自覚が促されたのか考えてみたが、1つは諏訪湖に帰ってきたことが大きい。私にとっての諏訪湖は、昨年の冬、孤独の中、忍び恋に生きた場所だった。諏訪湖に沈む夕陽に、宇宙の彼方まで飛んでいく恋のエネルギーを感じていた。その感覚が思い出されたのだ。それから、最近読んでいる修身の教科書、万葉集、葉隠、ドストエフスキー、乃木希典や吉田松陰が、霊性心の感覚を肚落ちさせたように思う。

 

知らずと涙もこぼれるが、冷静になれば、このようなことを書けば、現代人の感覚からは、やばい人間だと思われるだろう。そんなことを理性は不安に思うが、そもそもこの発想こそが、自己中心性から生まれたものなのだ。日々、知らず知らずのうちに、自己中心性に汚染し尽くされているのだ。だからここから抜け出すには容易じゃない覚悟がいる。横を見ては大業などありえず、ただ諏訪湖の向こうに落ちていく、夕陽だけを見なければならない。

 

「本気には大業ならず、気違いになりて死に狂いするまでなり。」これは葉隠の一句であるが、”本気”とは自己中心性から生まれるもの、”気違いになって死に狂いする”とは、自己中心性の外を生きた結果を指す。自己中心性の外を生きるとは、自分の肉体よりも、自然の法が優先されるということである。だから結果的に、狂った人間だと思われることがある。ただし「狂った人間だと思われるなぁ」とか考えているうちは、いつまでも自己中心性の罠にはまりつづける。”死に狂い”とは他者から見た結果に過ぎない。本人にとっては当たり前のことをしているだけである。

 

自己中心性の脱却。これこそが、金剛般若経の語る「自然の法を身とする」ことの入口だと確信する。入口から魂が少しずつ肉体に注がれる。これを本当の身とするには、日常から自己中心性に留まらず、つねに大きな魂に触れる覚悟がいる。生半可な気持ちでは成し得ないだろう。物質主義の世の中で、これを断行することはどれだけ過酷だろう。あれやこれやの誘惑が、自己中心性に引き込もうとする。

今日こうして自己中心性の外を体験できたのは、間違いなく現世の価値をつまらないものとして距離を置き、偉大な魂を求め続けた功績は大きい。肉体上の問題は眼中になく、この偉大な魂を身に修めることに、本当の価値があると確信する。

油断をすれば、自己中心性に引き戻される。というよりも、これを書いている今も、既に自己中心性から生み出された筆跡である。そういう意味で、私は現代人なのだ。現代人として生まれたのは宿命である。ただひたすら恋焦がれ、自己と一体化するまで、修養あるのみであろう。

 

自分の外を理解する、最後のきっかけは修身だったように思う。修身は、戦前に学校で行われていた、今でいう道徳を指す。戦後、修身は公教育から廃止されている。この修身の教科書を手に入れた時、現代道徳と修身の対立構造が、自己中心性と魂とまったく同じものだったと気づいた。つまり修身に生きることが、自己中心性を脱却する具体的手段であると感じたのだった。

 

今日は長くなってしまったので、この辺で。修身についてはまた明日書くことにする。

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