人間を無力化する上級享楽について[547/1000]

2023年も終わりが近づいてきた。この場を借りて、一年の反省が許されるのなら、私は第一の英断を「スマホを手放したこと」、第二の英断を「パソコンを手放して完全にネットから離れて生活したこと」だといえる。決して容易なことではなかったが、この二つの英断のおかげで、森の孤独は深まり、この隠遁生活もずっと豊かなものになった。

逆に及ばなかった決断とは、完全な山奥にこもるのではなく、人里近い森を選んでしまったことだろうか。これは、葉隠の教えである、「二つ二つのうち早く死ぬほうを選べ」の教えを破ってしまったゆえに、感ずるところである。

 

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電脳空間は、享楽に満ちているが、その多くは「上級享楽」だと言える。現在がすぎれば、次の瞬間にはなくなってしまうような享楽が多くあり、例外だと思われるような知的享楽についても、底の底を見つめてみれば、虚無の原理で動いていることも少なくない。ニュースにいたっては、地上を舞う埃のようなもので、たしかに世界の事件に関心を寄せることはすばらしいが、その根幹をとらえないかぎり、埃は風とともに吹き去ってしまう。

現在の一瞬間を慰めるだけの享楽は、われわれに無力感を与え、脳髄を衰弱させていく。わたし自身、そうしてスマホを手放したく、海に投げ出そうと思っても、手から離れなかった。スマホの魔力値はかなり強力であり、相当な鍛錬と弁えをもった人間でなければ、次第に飲み込まれ、感情を無力化させられていく、というのが、私の抱いている正直な感覚である。

 

感情を無力化されて何が悪いのだと、開き直る人間もあろうが、感情の力が衰弱していけば、感情を要求する素朴な享楽を味わえなくなるということだ。例えば、自然の景観を楽しめなくなったり、古典的な知的享楽である読書の習慣が失われていることは、まさにそれを暗示する。その際に味わう、人生の虚無、無力感は屈辱的なものだ。

 

私自身、バッテリーが壊れ、電脳空間から偶然に締め出されることになったが、今思えば幸運であった。代わりに、古典的知的享楽である読書に明け暮れる日々だが、読書においても古典を読むことこそ、真に人間の尊厳を守る、素朴な行いであると感じる日々だ。もっとも、要求される感情値も、意志の力も、きわめて高く、もはや苦痛が生じるレベルであるのだから、「享楽」とは言えないのだけれども。

ミルトンの「失楽園」のように、失明してもなお口述筆記で書かれたような呪物は、血で書かれた書物だといえる。そうしたものはこちらも、血を捧げる覚悟でぶつからねばならず、これこそ、感情の力を総動員しなければ、なしうることができない。これは、享楽というより、戦いだ。

こうした享楽をはじめ、人生から要求されるすべては、戦いだ。おおげさに言えば、コーヒーを一杯飲むにしても、それを楽しむには、感情の力をちゃんと使うことだ。

 

森の生活は、こうした素朴な日々である。そして、私はこんな日々を心から愛している。怠惰な遁世者だと、進歩の生活者は笑うだろう。ああ、間違いない。だが、虚飾によって上級になりすぎた生活のうちで、感情を無力化させられるなかにおいて、どうしようもなくなれば、森にくることは賢明な判断だろう。

 

2023.12.19

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