地水火風の「火」について[546/1000]

森にこもる隠遁生活は、哲学をする土壌に適している。

 

過去にも綴ってきたが、小屋に舞い込んできた小鳥を見て、現象界の創造主であるデミウルゴスの慈愛や芸術性を思い、枯れ落ちる葉や、倒木する木々の森を見ては、時間の円環を感じる。

12月に入ってからは、すっかり見なくなったが、10月11月には、夜、明かりを求めて、バッタがよく小屋に侵入してきた。私はバッタを小屋の外につまみだそうと追いかけるのだけど、バッタは本能、すなわち「意志」によって必死に跳ねて逃げる。

有機体とは、意志の現象だとショーペンハウアーが言うことも、バッタをみていると納得させられる。バッタが知性を持ちあわせているのかは知らないが、われわれ人間の高度な知性と比較すれば、バッタの知性などは無に等しく、それを踏まえてバッタをみると、もはや生きる意志そのものが、本能と合致し、行動のすべてを表出しているようにみえてくる。

 

科学に敗北し、四大という言葉が今日使われることはほとんどない。地水風化、この「火」についても、私は大いに感ずるところがある。これは少し、短絡的な発想かもしれないが、有機体が意志の現象であるのなら、意志こそ火であるといえないだろうか。なぜなら、われわれ有機体は、細胞の生滅をやむことなくつづけ、走りつづける代謝の上で絶えず燃えては更新する熱、つまり火であるからだ。

 

紙や木が燃えるのを眺めていると、火が生ずるのは、一定温度に到達するとき、いわゆる発火点に達したときだと分かる。火とは、熱が発火点に到達したときに生ずる、継続現象であり、絶えず熱反応によって死滅と生成を繰り返すわれわれは、熱ともいえるし、現象の時間のなかにおいては火であると言えるように思われる。われわれが、雪山で遭難し、凍死したとすれば、それは寒さに熱を奪われ、発火点をしたまわること、つまり生命の火が鎮火したことを意味するのだと思う。

 

われわれが調子の悪いとき、「燻る」と表現する。これはただの比喩であるというよりは、生命の性質を見事にとらえた言い回しのように思える。生命燃焼に生きるとは、エネルギー(熱)の賛美であり、無気力を悪とするのも、これで説明できそうだ。

 

隠遁生活を三ヵ月しての感想であるが、隙間はなくとも、火が使えない車生活の去年よりかは、隙間風があっても、火が使える小屋暮らしのほうが、肉体にとっても精神にとっても苦痛は少ない。これは、われわれの本質が燃えつづける火だからであり、火にふれることは体を温めること以上に、魂の故郷を感じさせ、孤独を和らげるからである。そして、火によって孤独を和らげることは、故郷に思いを馳せる分、同時に孤独を深めることにもなるのだ。

そんな「火」の神秘に感動する今日である。

 

2023.12.18

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