死に際に後悔したくないなら、どれだけ誤魔化さずに生きられるかが勝負[94/1000]

日本海を右手に疾走し、東北を抜けて、新潟の田上町にいる。

青森でいただいた五分づきの「まっしぐら」の味が、うまくてたまらなくて、言葉にしないとこの「美味さを叫び続ける自分」が成仏できそうにないので、ただうまかったことを言葉にしたい。

 

このまっしぐらは、青森で手作りの暮らしをされていたTさんご家族にいただいたお米で、農薬は使わずに育てたという。私は玄米大好き人間なので、「五分づきよりも玄米でいただけたらな」なんてずうずうしく思っていた所があったけど、食べてみるとそんな自分は一瞬で吹き飛んだ。

 

これまで食べたどんなお米よりも、フワフワしていて、甘みがあって、食後の不足感はいっさいなく、ただ幸せだけが残るような、魔法のようなお米だった。

このお米の上に、一口サイズのがぼちゃを乗せ、鍋で炊くと、いっそう甘みが染みたかぼちゃご飯になって、ここに塩を軽く振って食べると、塩もご飯によく馴染み、本当にうまかった!

 

東北ではいっさい、ご当地グルメは食べなかったけれど、こうしてお米をいただき、地元産の玄米を買い、道に点在する直売所で野菜を買って、湧き水と一緒にご飯をいただくと、わざわざお金をかけなくても、満たされるものがあった。

 

湧水も、あちこちでいただいたけど、山形の「神泉の水(かみこのみず)」は心温まるものがあった。

ここは、6つの水槽に分かれていて、1段目は飲む用、2段目は野菜や果物を冷やす用、3,4段目は野菜を洗う用、5段目は洗濯用・・・というように、生活の知恵が凝らされている。野菜洗いや洗濯をしながら地域民の井戸端会議の場にもなっているらしい。

 

一人で飲み水をくみ、りんごを洗い、洗濯をしていると、「生活感がある」という言葉は、今ではあまり美しい言葉として使われないが、ここでの「生活感」にはなんとも情緒があるなと思った。

この違いは何なのだろうね。

 

精神修養 #4 (2h/17.5h)

 

嵐の中の瞑想。

轟く暴風や大雨の中心にポツンと佇んでいるようで、いつも以上に呼吸は静かに感じられた。

 

瞑想中、風の塊を感じていた。風の塊は、龍の爪のようで、風に乗った雨が車を叩きつける度に、爪でひっかかれているように思えた。

こんな嵐の中でも、睡魔に襲われ、意識が朦朧とした。どこまでも、集中力が足りない。

 

1時間の瞑想を通して、色んなことが思い出されるのだけど、ただ観ているうちに、大半のことは消え去っていく。

どんな夢を見ていたか、時間が流れると思い出すことができなくなるように、瞑想の中で生じて消えていった反応も、思い出すことができない。

 

それはきっと、まだ私の意識がぼんやりとしていて、何となく反応を観ているからだろう。

思い出す必要はないと思うけど、意識を鋭くさせれば、生じた反応にもっと注意深くいられる。

 

 

夕の瞑想。どうしても身体が眠りたがっていて、ついにラスト10分で目を空けて、胡坐を崩してしまった。

集中できているときは、時間の経過が驚くほどはやいが、意識が朦朧とすると、時間の進みは遅くなる。睡魔と戦っているときの授業が永遠に感じたことに似ている。

 

「もうこれ以上は無理だ」と姿勢を崩してしまったが、この限界を超えなきゃ見えないものがある気がした。

「誤魔化さないから死ねる。死ねるから生きれる」ことに通ずる何かがあるように感じた。

 

これ以上はもう無理だと思った一点を突破した先にいきたい。

睡魔の中の瞑想はかなり苦難だが、それを受けとめるための精神修養であるようにも思う。

 

 

相変わらず、生きながら死ぬこと、死にながら生きることをテーマに考えている。

どうして、このテーマを考えているかというと、私自身の内に、もっと命まるごと生きたいという衝動みたいなものがあって、その答えが「生すなわち死、死すなわち生」の中にあるような気がしているから。

 

そして、引きこもり鬱だったころを思い出して、誤魔化すから死にきれず、死にきれないから生きれないんじゃないかなと思った。

 

当時は、いつまでも鬱状態から抜け出せる気がしなくて、永遠に何かの内側をさ迷っているような状態だった。今振り返れば、苦しさを娯楽で誤魔化して、死にきれなかったから、グルグルさ迷う繭を突き破って、生きることへの力が湧き出なかったのだと思う。

誤魔化していることを、自分はずっと知っていたけど、知っていることすらも誤魔化した。誤魔化さず、感情を直視すれば、苦しくて本当に死んでしまうような気がして怖かった。

 

 

強い人間の「強さ」とは、目の前の感情をどれだけ誤魔化さずに生きられるか、かもしれない。

誤魔化しても今日を生きることはできるけど、生きている心地はあまりしない。誤魔化さず、恐れや苦しみの先に突っ込んでいったときのほうが、ちゃんと生きている感触がある。

 

誤魔化して生きつづければ、死ぬときに死にきれない気持ちになると思う。つまり、死なないと死にきれない。

 

 

私が「生すなわち死、死すなわち生」の状態にあったと感じるのは、オーストラリアのアデレートの山の中で、野営をしたときだった。

そのとき、自分の内に感情の核を感じて、そのど真ん中を突き破った不思議な体験をした。

昨晩、2時に目を覚ました後、不思議な体験をした。私は、私を支配していた恐怖を内側から溶かすことができたのだ。ちょっと感覚的な話になる。私は私の内側に、黒い円(球)のようなものを感じていた。これは、私が恐れを抱くとき、いつも内に存在していたものだったのだけれど、平生はこの円が小さいためか、中々これを認めることができなかった。昨晩、初めてこれを認めることができたのは、嵐のように吹き荒れる木々に、私の恐れが極限まで高まったからだと思う。

この黒い円(球)が段々膨らんで、無視できないほどに膨らんだとき、私はこの円に飛び込むことができたのだ。厳密には、飛び込んだというよりも、吸い込まれたといったほうが適切かもしれない。ここへ飛び込むという発想も意志もなかったのだから。

黒い円に吸い込まれた私は、恐怖の真ん中を味わった。それは映像としても脳内に再生された。私は断崖絶壁から落ちていた。もうわけわからなかった。心臓を恐怖の槍で貫かれたようだった。

意識が今に戻ったとき、己の内に黒い円(球)の存在を認めることはできなかった。きれいさっぱり消えていた。相変わらず、風で木々が唸ろうとも、この晩、私が恐れを感じることはもうなかった。

黒い円が消えたのち、内にあるのは心地よく寝られそうな、温かな安心感だった。こうして私は、外が風で吹き荒れる中、安らかに眠りにつくことができた。

https://note.com/tomoyauchida/n/naad8bad00197

 

死ぬと思ったけど死ななかった。このとき、誤魔化さなかったのは、誤魔化しようがなかったからでもある。

山の中、奥深くにいて、もう逃げ場がなかった。実は、この時、難しい本を読んだら眠れるかと思って、逃げ出そうともした。しかし相手があまりにも大きすぎて、そんなことは何の気休めにもならなかった。

逃げ場がないとき、人は進むしかなくなる。だったら、逃げ場を絶ってしまうというのが、死に突っ込んでいくには一番なのかな。

 

このテーマについては引きつづき考えたい。

今日はこの辺りで!では!

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