人間は死に場所を求める存在である。生という不安定な海に漂う”自分”という存在を、安定させるには死に向かうしかない。その最も身近な手段が労働である。われわれは、組織に身を捧げることによって、自己から離れて全体と一致する体験を得る。働くことでしか得られない”気持ち良さ”は、必ず自己犠牲の後にやってくる。規律正しい軍隊のように、潔く、真っすぐに死ねるほど、労働は気持ちのいいものになるし、反対に、中途半端に生きてしまえば、拷問のように苦しく感じられる。
己のすべてを何に捧げるか。誰に捧げるか。どう捧げるか。未熟者の私は、毎日これを問うては、相変わらず、死に場所を求めている亡霊なのだと認識する。
労働と搾取。日露戦争で乃木大将に従軍した一族は、死んだ息子を一族の誇りにしたという。片や、同じ戦争でも、大東亜戦争では国に命を奪われた被害者として、国に恨みを抱えた遺族は少なくなかったという。何が死に場所となり得るのか。労働にしたところで、誠意をもって働いても、権力者の私腹を肥やすだけであると知ってしまえば、虚しい気持ちになる。片や、百田尚樹氏の「海賊と呼ばれた男」のモデルにもなった出光佐三のように、国を貫く大義があれば、この身の命などくれてやっても惜しくないと思えるのである。それが熱い血の流れる、生身の人間というものではないか。
2024.10.18