冥府の者は、冥府の木の実を味わった者が彼らの手に落ちてしまったことを知っている[508/1000]

高尚をあきらめたら、貧しい暮らしは必要ない。貧しさが高尚という意味ではないが、安逸は幸福を求めるにちがいない。

一度は堕落した人間だ。幸福な暮らしを考えなかったといえば嘘になる。適当な仕事をして、愛想のいい婦人と結婚して、週末は家族で映画でも観て、美味い料理に談笑しながら、平和を謳歌する人生も悪くないと思った。だが、どのみち、一人にならざるをえなかっただろう。「なるようにしかならない」という言葉は、怠惰と諦めのために使われるのではない。先天的な気質によって招き寄せざるをえない、運命には抗うことができないことを意味するのではなかろうか。

 

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なにが善で、なにが悪か。エネルギーは善で、無気力は悪だと『生命』は言う。無知は悪だと『罪』が言う。

だからこんなにも、無知な自分が恥ずかしいのだ。恥を恥じとも知らぬまま、好き勝手に言葉を凌辱していた過去を思うと、本当にやりきれない気持ちになる。感情と言葉が一直線に繋がれば、時に美しく、時に淫らだ。その境目に、無知と恥があるだろう。

 

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現時点での自分の立ち位置を考えてみれば、特定の主義を主張できるほどの教養はない。ただし、いきすぎた人間礼賛によって、放埓のままに堕落する現代の醜態には、たしかに疑問をおぼえており、その反抗として、禁欲主義的な生活様式を採用している。

ただし、ニーチェが神の死を宣告したとおり、肉体を拒絶ししつづける絶対的な力というものが失われたことによって、禁欲主義は路頭に迷っている印象を受ける。また、一度自我を解放し、現世を肯定した人間については、もう後戻りできない道を進んでいるのかもしれない。

それは、「魔の山」のセテムブリーニという民主主義者の次の言葉のとおりだ。

神々と人間はときどき冥府を訪れて、また帰ってくることができました。しかし、冥府の者は、冥府の木の実を味わった者が彼らの手に落ちてしまったことを知っているのです

なるほど、われわれは歴史のなかで木の実を味わいつづけてきたのではあるまいか。たしか、古事記にも似たような場面があったと思う。イザナミが黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、イザナギと一緒に帰ることができなくなった。人間の食べ物の味を知ったクマの悲劇も、似ている。

われわれ人間の動物性は、一度味をしめた享楽を手放すことができるだろうか。享楽を提供する企業は、人間をいかに依存させるかという点に、集中し始めるのなら、これは進歩というよりも、人間の動物性を刺激し、人間性を愚弄しているようにも思える。もちろん、彼らは「進歩」と「幸福」を楯に弁解するだろう。

 

今のわたしには、人間は進歩したというよりも、退廃したというほうが実情をうつしているようにみえる。そして、私は人間というものを、地獄を遍歴しながら天に向かう存在だと今は考えている。いつの時代も常に現世は、天からの堕落であり、つまり地獄だった。

 

【書物の海 #34】魔の山, トーマス・マン

あなたは革命家と自称していらっしゃる。しかし未来の革命の結果は自由であろうなどとお考えでしたら、それは間違いです。自由の原理はこの五百年に成就され、時代おくれになってしまったのです。

今日なお啓蒙主義の娘をもって任じ、批評、自我の解放と育成、絶対視された生活様式の廃止などを教養手段と見なす教育学―そんな教育学はまだ美辞麗句による束の間の成功を博しうるかもしれませんが、その時代おくれの性格は識者には疑う余地のないものなのです。

 

2023.11.10

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