文明も時代の道徳も突き破らなければ、生命は死ぬ。[256/1000]

Break or die.

文明を突き破れば生命は蘇るが、文明に飲まれれば生命は徐々に死んでいく。生命が死ぬとき、生活はいつも安心と安全で固められる。私はここに現世に閉じ込められていく恐れを抱く。加えて、物質主義の現代は、生命が死ぬだけではなく、人間としても死ぬ。欲望を追いかけまわすほど、自己中心性を帯び、美しさを失った動物と化していく。いったい、人間の尊厳はどこに消えた。

 

文明を突き破るとき、生命は蘇る。檻から抜け出そうと、檻に体当たりする猛獣が、野性を帯びるように、突き破ることは荒々しい。生きることは、現世の肉体活動ではなく、宇宙的生命燃焼である。水平世界を突き破り、垂直世界へ飛び出すと、自己は「現世の人間」から、永遠に向かう「宇宙生命」であることを自覚する。

 

私がイエスに感動するのは、愛の教えももちろんだが、時代の常識を突き破った永遠の魂にある。当時、絶対的なものであった律法の認識を破り、愛の神を説いたイエスは、弟子にも民衆にも理解されないまま、十字架に磔られて死んでいった。今日、イエスの愛の教えは、優しいものだと認識されるが、イエスの生き方は荒々しい革命そのもので、弟子たちには、必要とあれば私のために自分を捨てろ、私のために家族を捨てろとまで言っている。肉体が絶対となった今日は、自分の生命を擲つ信仰そのものが理解できる素養が失わわれる。ゆえに、信仰に生きれば、文明を破ることに繋がっていく。

 

快適な家にいると生命的に死んでいく感覚がある。そのせいで今も、家のない暮らしをしている。あくまでこれは、文明と自己との関係の中にあるもので、もし仮に、大衆が家を持たず、森で暮らすことが常識の世界であったらば、家のない暮らしをしても文明を突き破ったことにはならない。常に文明や時代の道徳との関係の中に自己がある。

三島由紀夫の書いた「葉隠入門」の一節を思い出す。これが今ストンと肚落ちした感覚がある。

「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。

 

世間が美食に向かうなら玄米を食べる。世間が飽食に向かうなら一食しか食べない。世間が便利に向かうなら、あえて不便をいく。世間が幸せを欲するなら、不幸を求める。

恥ゆえに書けないが、道徳もあえて破ることに挑む。これは、苦しく情けないが、苦しむほどに生命が檻をぶち壊そうと体当たりを繰り広げるのを感じる。神や自然、生命の冒涜は罰(バチ)当たりである。しかし、罰を受ける覚悟なければ、破ることはできないのだと思う。

 

本当の愛も、本当の自由も、現世を突き破った先にあると確信している。愛も自由も、宇宙的なものだからだ。キリストを始め、かつて偉大に生きた人物たちは、いつも文明や時代の道徳を突き破って生きていた。この魂を感じるのだ。魂を身に宿し、宇宙生命として現世を狂い、永遠の魂にひたすら憧れるのだ。

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