人間は正しく堕ちることが必要だが、堕ちきるほど強くもない[305/1000]

「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。」と坂口安吾は言う。

山林を探しながら、悪い方ばかりに流れている気がする。最初は人里から少し入った森林を探していた。しかし、いつしか人が簡単に辿り着けないような、秘境のような場所に心が奪われている。20万平米、坪数で言うと約6万坪、分かりやすく言えば、200mの間口から1kmも続くような面積の山に憧れ始めてしまったのだ。電波なく、そこに辿り着くまでの道路も、封鎖されている。ケガでもすれば、誰の助けも得られず、このまま自然の中で一人死んでいくだろう。しかし、もしこんな土地で畑を耕し、動物を狩り、湧き出るアルプスの水で喉を潤し、大自然の中で精霊と共に生きられたら、お金とは無縁の一生をおくるに違いない。

文明から生命を救うどころか、文明からは完全に抜け出し、この大きな自然の中に、生身の生命を生かすのだ。もはやこれを堕落といっていいものか分からないが、堕ちるところまで堕ちたに違いない。家を買うでも、子供の教育に充てるでも、親孝行するでもなく、なけなしの金と命のすべてを、何の役にも立たないロマンにぶちこむのだから。

 

しかし、そんなことは憧れはしても、できっこないのだ。坂口安吾は、人間は正しく堕ちることが必要だが、堕ちきるほど強くもないと言った。ある程度までは堕落できても、ある一線からさらに下降するのは狂った人間にしかできない。この一線を超えられないのが凡人であって、一線を超えた人間が、歴史に名を刻むような人物となったのだと思う。文明から飛び出す生命だけが、文明によって記録されるのであって、一線に留まる人間は、正気な人間であるかわりに、時の流れの儚い一生の中に幸せを見つけることしかできないのだ。

私は凡な人間である。一線を超えて堕落しきる強さはないと日々感じる。あちこち山林を探しながら、電波を得るか失うかという一点が、私にとっては一線であった。電波を失えば、こうして毎日ブログを書くことも、仕事をすることもできなくなる。この生命を文明にぶつける最後の手段が電波であって、文明との接点をもてるかぎり、堕落した自分を再び更生させるという希望をもつことができる。しかし、電波を失えば、私はもう堕ちるところまで堕ち、すべての希望は断ち切られる。ぷつりと文明から切り離され、糸の切れたタコのように、誰も知らない自然の中で、ひっそり自給自足の暮らしをするだろう。すべてが嫌になったとき、そんな風に生きることに憧れるけど、これは「洞窟おじさん」のように強くないとできないことだし、苦労で不幸せな生き方かもしれない。

 

この矛盾した気持ちにどうケリをつけるのかまだ分からない。しかしやはり、文明のすべてを捨てて、大自然の中で生きることを想像すると野性が震えるなぁ。

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