天の忘却による歪み。転禍招福に向けて。[388/1000]

雨が降る季節であるが、どうしてか今朝の雨には天の痛みを感じる。雷鳴には天の怒りを感じる。心に叩きつけられる雨粒の音、ひとつひとつに、天の悲しみを感じる。人間の魂が奪われるその変遷を天は見守りつづけてきた。現世に起こる不穏な出来事の数々は、天の忘却による歪みから生じるものである。自然災害も、病気も、人間の不本意な死も、全体の歪みが耐えきれぬ形となって局所に集中し、部分に生じるものである。縄文時代には争うための武器はなく、人々は自然と調和しながら、平和に暮らしていたという。天とともにある状態こそ人間本来の姿であり、純粋な天との繋がりの下に平和がある。現代は物質主義と科学信仰により、多くの人間が魂を奪われている。永遠を慕うものは天と繋がり、孤独に死に向かう覚悟を決めねばならない。不吉なことは口走りたくないが、私はとても怖いのである。天の鎖を断ち切った人類が、無法者となって地球を破壊し、水爆によって自滅する終末が。

時代に生まれた宿命を背負い、時代とともに死ぬのなら、それもまた因果応報である。しかし、今日まだ生きているのだから、非力ながらこの生命でやれることをやるのである。物質文明が精神文明に勝ることは歴史が証明した。ずる賢い人間が得をして純粋な人間が損をする世の中である。偽善に騙される世の中である。しかし、この時代に生まれた以上は、この時代を生き切るしかないのである。どのみち死ぬ運命にある。それが10年や20年早まったところで、そういう運命にあっただけである。

「気」の旧字は「氣」である。〆ではなく、米である。古来、日本人は米を食って氣を蓄えてきたのである。私はこの話を聞いて、とても感動したのである。今、私は玄米を食べない日はないが、やはり力の源は米であると確信するのである。腹の底から力を漲らせて、氣を強くもって生きることである。

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