今日だけの今日なんだよ。今日のための今日なんだよ。[40/1000]

岐阜の生まれ故郷に帰ってきた。2,3日ここに滞在する。

 

両親は変わらず元気でいてくれている。母が運動中にぎっくり腰になったと言って、屈辱感を味わっている姿が微笑ましくて笑えた。今この瞬間も身体は少しずつ老いてはいくが、心はちゃんと元気だなと思った。

風呂上がりに上裸になっていると、筋肉で締まった私の身体に感化され、父が「俺も体幹を鍛え始める」と宣言した。心はちゃんと元気だなと思った。子にとって親が元気でいてくれることは、涙が出るほど嬉しい。

 

今日も、私のブログを読んでくださるあなた様は、今この瞬間、元気でいてくれるだろうか。

ちゃんと食べているだろうか、ちゃんと歩いているだろうか、ちゃんと寝ているだろうか、ちゃんと笑っているだろうか、ちゃんと楽しく暮らせているだろうか。

何度も言うぜ。元気でも元気じゃなくても、あなたは最高だ!

 

両親を前にしても、一番大事なことはやっぱり変わらず、「今この瞬間元気かどうか」だと思った。

自然の理で生きているかぎり、悲しくても、怖くても、認めたくなくても、いつか別れの瞬間は訪れる。今日かもしれない。明日かもしれない。いつか分からない。分からないのは怖いけど、分かってしまうことはもっと怖い。

 

怖いから、当たり前に続いてきた日々が、これからも当たり前に続いていく前提に生きて、安心を得ようとする。

今日は「今日だけの今日」ではなく、「昨日と同じ今日」であり「明日も続く今日」となる。この感覚の違いは大きいと思う。

 

確かに「今日が最後かもしれない」という前提で、毎日を生きるにはくさすぎる。

 

友人に「達者でな!!!お前は最高だぜ!!!」みたく、かっこよく別れた後に、忘れ物したとかでばったり再会して気恥ずかしくなるのに似ている。

駅のホームで別れを惜しんで、愛を叫びながら汽車を追いかけても、汽車が故障して恋人が降りてきたら、きっと恥ずかしさに粉砕する。

 

別れるから初めて言える言葉がある。それはいつも思っている本音だけれど、日常的に口に出すには恥ずかしすぎるのだ。

私たちが毎日が当たり前に続いていく前提で生きるのは、死を認めるのが怖いこともあるかもしれないが、それ以上に、ただ恥ずかしいだけなのかもしれない。

ありがとうって面と向かって言えない、ただの恥ずかしがり屋さん。そんな風に思うと、なんだかとても可愛げがある。

 

 

あらあら、今日もまた生きて会っちゃいましたね!今日を生きるあなたへごきげんよう!今日を地球で生きる我々に乾杯!

みたいな感覚で生きたいなと思う。

 

私は恥ずかしがり屋だけれど、幸いにも顔も見えない言葉の上なら、クサい台詞だって吐けるのだ。

だから少なくとも、このブログでは、そんな感じでいこう。明日の最初の一文は「あらあら、今日もまた生きて会っちゃいましたね!今日を生きるあなたへごきげんよう!今日を地球で生きる我々に乾杯!」で始めさせていただこう!

 

 

なんだか色々書いたけど、やっぱり、今ここにそのままあること、今大切な人が生きていること、今こうして生きていることが、ただとっても尊いことに感じるから、今の連続を心に刻みたいと思う。

未来を憂う暇なんてない。過去の自分を憐れむ暇もない。今ちゃんと心臓の鼓動うって、今生きてることが立派なんだから、ただ今ここにあるそのままをそのまま残そう。

 

 

さて私は昨晩、久しぶりにありついた玄米を、茶碗5杯も食べることができて、とても誇らしげな気持ちになっているぞ!

今日は母が実家に畑をつくりたいとのことで、軽トラをレンタルして、祖父の畑の土を大量に貰いにいく!力仕事!うおお!

 

というわけで、今日はこの辺りで!

また明日!ばいばい!

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