自分探しなどやめて、歴史を学ぶのだ。[477/1000]

草枕月記では、孤独や孤立をテーマとして扱うことが多い。それは、私自身が孤立に苦しんだ人間であり、孤独に救いを見出す人間だからである。私はこれらの言葉の定義に、天や神といった信仰の存在をみつける。孤独な人間がなぜ孤独になるかといえば、単に人間嫌いだからということではなく、天と繋がるためには、現世的な価値を捨てざるを得ないからである。何も宗教に属せという話ではない。信仰は流体と化すことであり、固着した教条に陥ることをむしろ嫌うのである。

現代の日本人を苛む孤立感については、本日の書物の海にて触れることとする。まるで、冷たい宇宙のなかに放り出されたような、虚無と孤立感にさいなまれるのなら、歴史を学ぶことがそれを打ち破る鍵となるかもしれない。

 

【書物の海 #7】日本国紀, 百田尚樹, 幻冬舎

三度目の通読になる。本書は、日本の縄文から平成に至るまでの通史であるが、通史を学ぶ意義としては、本書の帯にもあるように、「私たちは何者なのか」を知るという点がかなり大きいと思う。

人生の路頭に迷う若者は、必ずと言っていいほど”自分探し”をするが、今日その意味が持つものは、”やりたいこと探し”である。それが間違っているとは言わないが、もし古代から現代にいたるまでの歴史の流れを知り、われわれの先祖たちが、どういう人格をもち、どんな生き方をして、何に命を捧げ、いかにして今日の日本とその魂を繋いできたのかを知れば、宇宙に点として放り出された「自分」という存在は、日本人として一本の線に通ずることを自覚する。つまり、現代人としての「分」や「弁え」、自分の生い立ちと宿命を知り、それをどう活かすかという生命的、宇宙的な視点を得ることができる。これは、点としての自分が何をやりたいかという、個人的欲望を超えた大きな視点である。

 

今日生ずる孤立感とは、日本人としての自覚の喪失に由来するところが大きい。本来、線であるはずのわれわれは、天から切り離され、点になっているのである。日本人としての自覚や愛国心は薄れ、個人としてしがらみのない自由は獲得したが、制約とひきかえに得た自由を享受するよりも、制約を失ったことでの孤立感に苦しむことの方が多いようにみえる。

 

私は、魂や誇りといった問題を重要視する。それが、人間が人間として生まれた意味であり、人間だけの「美」を生み出す根源となると信じるからだ。そして、天から切り離された状態では、魂も誇りも失ったままである。歴史は、「自分」という存在が、無責任に宇宙に放り出された孤立した点ではなく、先人の血と汗と涙によって受け継がれてきた魂の結晶であると教えてくれる。

この宇宙に生まれ、自分が何者なのか知りたいのは、生命的にあたりまえの好奇心であろう。私はつねに、この問いを持ちつづけているし、この問いを失えば、生きる指針を完全に失うとさえ思う。通史を学ぶ歓びはここにある。

日本国紀 単行本 – 2018/11/12 百田 尚樹 (著)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です