生の原理、死の原理②[562/1000]

仕事がなくとも、仕事をしろと言われる。書くことがなくとも、書けと言われる。こうした主客転倒を時に生み出す規律のなかでは、時間を克服できない人間の弱点が露出し、われわれは虚無に陥る。

主客転倒といえば、昨日も書いた、生の原理、死の原理についても言える。生命が熱反応によって燃焼する死の原理があってはじめて生の現象が生まれるのであって、生自体が自己目的になることは、生命論としてはあり得ない。死にささえられた幸福は美しいし、幸福のための幸福は欺瞞に満ちている。

 

牧歌的世界観の幸福が美しいのは、背後に敬虔な死があるからだ。

私は「大草原の小さな家」というドラマが大好きで、神経衰弱にやつれていたときは、これを毎日観た。また、あの有名な「赤毛のアン」の小説も大好きで、これも何度も読んでいる。牧歌的幸福の背後にあるのは、信仰と祈りである。日々の労働も、町のお祭りも、家族の団欒も、学校の儒教も、教会の祈りも、子供の躾も、すべて「死」の原理に支えられている。毎晩子供たちは、祈りを唱えて眠るのだ。

今日の幸福の欺瞞に耐えられない人間は、幸福を蔑むというよりは、幸福がご都合主義によって、だしに使われていることが許せないのだろう。なぜなら、幸福を愛さない人間などいないと私には思われるからだ。どんな悪態をつく人間にも、その心の奥底には温かい涙が流れていると、私は信じる。

 

西洋はルネッサンスから生の原理が支配をはじめ、日本は戦中は死の原理、戦後は生の原理が支配したといわれる。もちろん、オセロの表裏のように極端に論ずることはできないだろうし、その証拠に、今日だって美しい人間はたくさんいる。

一つ私は、隠遁中に死の原理に生きる術を学んだ。素朴な習慣を守ること、時代の上級になりすぎた享楽に、習慣を支配されないことだ。なぜなら、時代に洗練された素朴な享楽は死の原理にあり、今日性のものは十中八九、生の原理にあるからだ。隠遁生活とは、今日性に満つ環境から、強制脱出することであった。われわれは行為と習慣を通じて、根本原理を強化している。生の原理を繰り返せば、われわれは物質的になっていくし、死の原理を重んずれば、われわれの魂は強くなるはずだ。

ゆえに、素朴な習慣と歓びを、洗練されすぎた虚飾と技巧に満ちたものから守ることは、魂を重んずる人間にとって、日常で心掛けることの一つとなろう。

 

2024.1.3

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