皆が幸せになろうとする中、不幸を厭わず死んでいきたい。[254/1000]

キリストの愛の教えは、数えきれないほどの人間を救ってきた。しかし、何もかも赦されすぎた今日を生きる私にとって、愛の教えは、あくまで1つの教えにすぎず、本当に私を感化するのは、イエスの魂そのものだった。ペトロやパウロら弟子達の命がけの戦いだった。

 

①自分の命以上のもののために、自分の命を擲(なげう)つ

信仰に生きることは、自分よりも大切なもののために、自分の命を擲つことを言う。イエスは愛の神を信じ、愛の神の証明のために自分の命を擲った。原始キリスト教団のペトロやパウロも、キリスト教を布教するために、迫害され、リンチされ、石打ちに遭い、投獄され、それでも布教することは決して諦めず、旅をし、遭難し、恥辱に合い、最後は惨めに死んでいった。

肉体がすべてとなった今日の人間にとって、殉教は理解の範疇を超えた狂人にうつる。しかし、長い歴史の中では、神のため、国のため、主のため、大切な人のために死んでいくことは、人間にしかできない美学であった。

 

昔の人間が優れていたわけではなく、最後には殉教したペトロや他の弟子たちは、イエスが処刑されるとき、イエスにすべての罪を着せて隠れるような、卑怯で臆病な弱虫な人間だったと、遠藤周作は著書に書いている。私はこれを読んだ時、少し救われた気持ちになった。魂に生きた弟子たちは、決して最初から優れた人間だったわけではなく、今日の人間と変わらない自分勝手で臆病だった。

そんなペトロ達が、どうして殉教に至るまで変われたかというのは、今日もキリスト教の謎とされている。愛だけを信じ、無力に死んだイエスの神秘となっている。

 

②道徳を破って義を貫く

私が何よりも感化されたのは、当時のキリスト教は、一神教のユダヤ教を母胎として生まれたということ。つまり、生まれてからずっと、唯一神ヤハウェの下、神殿を崇拝し、安息日を守り、律法が絶対となった世の中で、その律法を超えるものこそが福音だと言いのけたのである。これは、命知らずの革命だと思う。聖書にある「人は安息日のためにあるに非ず、安息日こそ人のためにあるなり」というイエスの発言も、危険極まりないものだったのだ。

実際、律法を超えるものこそ福音だと口にすれば、ただで済むはずもなく、神殿を冒涜した弟子のステファノは民衆に石打ちで殺される。ユダヤ教の律法を超えることは、当時の人の感覚では本当に恐ろしいことで、原始キリスト教団の中でも、ユダヤ教の枠内でキリスト教を考える派閥もいたくらいである。

 

現代の日本では、憎まれることはあっても殺されることはない。あえて近いものを考えるとするなら、愛国忠君を唱え、戦争を求めることを是とすることだろうか。それでも憎まれることはあっても、殺されることはないような気がするのは、言論が自由になったというより、命を懸けるような信仰がそもそもないからである気がする。

 

いずれにせよ、イエスやペトロやパウロやステファノに心を打たれたのは、時代に蔓延する「絶対」を破るような義を貫く精神だった。赦されすぎて堕落した今日を、もしイエスが生きていたら、愛の神の代わりに別の神を説くと思う。「愛は大切じゃない。大切なのは法だ。」と言って、人々の反感を買うかもしれない。しかし、イエスやその弟子たちがやってのけたことというのは、そういうことなのだ。キリスト教は、愛の教えであるが、愛の教えを拡げた魂は、時代の道徳を破る命懸けの戦いだった。

 

今日の道徳を破るとしたら、私は不幸を目指したい。皆が幸せに走ろうとする中、不幸を厭わず死んでいきたい。今日は幸せになり過ぎた。毎日美味い玄米を食える私も既に幸せになり過ぎた。幸せはもう求めなくていい。本当に求めるのはこの命を燃やし尽くすことだけだ。幸せを絶対としていたら、それはなし得ない。不幸を厭わない気持ちがなければなし得ない。

誰もが幸せの価値を信じて疑わない中、不幸を目指したい。ここに1つ道徳を破りたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です