善と悪(道徳)を踏み越えていくことの意味[253/1000]

道徳との向き合い方について、中々肚落ちしない。これは、私自身いわゆる”いい人”として生きてきた時間が長く、道徳を破る感覚と結びつかないからだろう。道徳に生きることが人生のすべてとなれば、大業はなし得ないと思うのは、生命の下降を嫌うようになるからだ。憧れに向かって生きる垂直性を第一とするとき、時には地獄に堕ちることもある。そして、善悪に生きることは第二となる。善悪をあえて踏み越えるような不良性がなければ、生命の燃焼を為し得ない。今はこのように認識する。

 

昨晩、私自身、何を善として、何を悪としているのか書き出してみた。

【善】法(規律正しい, 決まった時間に起きる, 瞑想を毎日行う, 二言なし), 礼(心を込めて人に接する), 義(日本のために働く, 献身する), 恩に生きる, 清貧(質素, 粗食 ,物を大切に),仁(親孝行,友) 努力, 孤独, 忍耐, 陰徳, 信仰, 仕合せ, 人の幸せ

【悪】私的欲望, 物質礼賛, 怠惰(生活, 身なり), 論語読みの論語知らず, 根無し草, 殺生, 盗み, 貪り, 独身, 自己礼賛(誇張, 欺瞞, 自己中心), 人を傷つける, 偽善(ボランティア), 過度であること,不仕合わせ

 

【悪】にあるときは恥や後ろめたさを感じ、【善】に向かおうとする。無意識のうちに、生活は道徳を基準につくられていることを知る。ただ、道徳は相対的なものであり、時間と共に変わることだと承知する。例えば、旅をすることは、20代前半くらいまでは【善】だと思っていたけれど、根無し草を良しとしない今は【悪】となった。酒やタバコも健康を害する【悪】だと思っていたが、生命燃焼を第一に考える今は【善】でもある。幸せになることは、善だと思っていたが、今は善でも悪でもなく、ただの結果に過ぎない。しかし、自分の幸福を求めることがあれば、自己礼賛の【悪】となる。

 

道徳よりも重きを置くのが、「二つ二つのうち早く死ぬ方に片付くばかりなり」という葉隠の言葉。決断の場面において、道徳を基準に行動選択をするのではなく、早く死ぬ方を選ぶ。損をする方を選ぶ。これは、幸せを絶対とする生き方を捨てて、生命燃焼を絶対とする生き方を意味するのだと思う。道徳は二義的なもので、破る覚悟がなければ絶対的な魂を掴むことができないということか。

道徳を破ることについて、生命燃焼における根幹だと思うから書いてみたけれど、やっぱりまだまだ肚落ちしていない。そもそも道徳とは何かという問いから分かっていない。ただ、道徳を書き出してみて、【悪】に苛まれる自分がいて逆に安心した部分もあった。傲慢だけれど、自分を善人だと思っていた節があった。まったくとんでもない話だった。

道徳を破ることについての探求は続く。

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