自分を「鎖国」することの必要悪について[252/1000]

規律とは、自己に課す法である。規律を乱せば、法は破れ、生活の秩序は乱れる。

私にとっての数少ない規律に瞑想があった。毎日朝晩1時間ずつ、座禅を組む。160日ほど続いている。その経過記録を、日々ブログで綴っていた。しかし、記録することが前提の瞑想は、何を記録しようか考えてしまうので、うすうす本末転倒だと感じており、ついに記録を止めることにした。

しかし、記録を止めると気が緩んだのか、瞑想をやらない日や、時間を短縮する日が出てきた。規律は1つ破られると、穴が空く。空いた穴から、怠惰な悪魔が次々と流れ込んで、生活はいっきに緩んでいく。

 

一月前くらいにスマホを手放した。それから惰性的に誰かのnoteを読むことも、youtubeを観ることもなくなっていたが、気づけば、怠惰の悪魔に乗っ取られ、他人を見ては気が狂いそうになっている自分がいる。

ネットは自我が濫立して、皆が勝手なことを好き放題、無秩序・無責任に言い放つ。このカオスな情報を浴びて、気が狂わない人間は、能力のあるほんの一握りの人間だけだと思う。多くは狂わされているし、狂わされていることにも気づかない。こうしてつまらない言葉を綴る私自身もそのうちの一人に加担しているわけだから、本当に恥を忍んでいる。

 

簡単に手に入る情報は目先の損得に直結する水平的なものが多い。すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる。ネットから得た情報も、ボロ雑巾のように日々使っては、使い捨てられているような印象がある。情報不足に陥れば、損をするような気がするが、どのみち捨てられるはずのものだったのなら、最初から拾わなくても問題はないということだ。これは私自身、スマホを手放しても、大して生活に影響がないことからも身をもって実感している。

 

さて、今日の題にも書いた、自分を「鎖国」することの必要悪について。鎖国によって日本の文化は発展した。垂直方向に伸びるには、水平方向を遮断することも時として必要である。これは、人間の生命燃焼にとっても言えることだと思う。垂直方向に伸びる生命燃焼は文化と似ている。横を見て誰かと比較しているかぎりは対立し、発展が阻害されるものである。

 

スマホを手放したことで、流行りの情報に疎くなった代わりに、読書量は増えた。ある種の鎖国状態である。読書も、時代によって洗練されたものを読むようにしているから、現世を生きながら、現世にないものと触れている。過去の偉大な魂から人間を学び、魂を取り込み、精神の鍛練に集中している。

三島由紀夫は、精神の有無を証明するのは、肉体だと言った。まったくそのとおりで、私自身、この鎖国状態を顧みて、このままじゃいけないと感じている。どれだけ精神を充実させようと、肉体で証明しないかぎりは無いも等しいのだ。それでもこの鎖国状態を必要悪として捉えたい。三島由紀夫の生きていた時代とも、状況は変わっている。既に魂が失われつつある現代は、鎖国して自国の文化を固めなければ、水平方向に流れる一方で、生命の燃焼は難しいと感じる。少なくとも私の場合は、これまでの鬱や挫折を顧みても、鎖国によって精神を固める必要があると痛感している。

 

魂の永遠性は少しずつ分かるようになってきた。魂を持たない現世の多くが、いかにまやかしであるかも分かるようになった。

現世を生きながら、現世を生きない時間は、肉体を伴わない空虚である。本当にそのとおりなのだ。しかし、この鎖国という時間は、どうしても必要だと思う。特に魂が失われつつある現代だからこそだ。

性別も、年齢も、職業も、地位も、財産も、時代も、全部関係なく、生命燃焼と魂に生きることの点においてはすべてが平等である。横を見ることを辞めた時、あらゆる現世の制約は払いのけられ、生命燃焼に向かっていくのだと思う。

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