まっとうな生活に根を張れない旅人[637/1000]

インドから帰ってきた私とすれ違いざまに、母がタイに旅に出た。旅とはいっても、1泊1000円を惜しむような貧乏な私とは違った裕福な旅行である。また、生活に根を張らないただの放浪者とは違った、まっとうな生活の上に伸びていく旅行である。

 

同じ海外とはいっても、両者はまったく別物といってもいいほど、性質を異にする。雑に言えば、生活に責任をもたない者は、生活への責任を放棄するに足る何かを、旅に求めるようになる。生活に責任を持つ者にとっては、旅が生活を上回ることはないのである。土壌に吹かせる風にすぎないのである。

土壌となるものは、いつも生活である。土壌に縛られることを嫌い、自由に生きる人間をヒッピーと呼ぶが、真面目な性格の私は、やはり生活への責任を抱えながら、もしくは、生活への責任を放棄する自覚を持ちながら、旅をすることに人間をみる。

 

私は20代、ふらふら旅をしながら生きてきたが、こたびのインド旅で、青年期の旅に終わりを告げたつもりであった。当分、海外にはいくまいと思っていたが、不思議なことにインドから帰ってきてからは、インドで過ごした鮮烈な日々が、かえって夢心地を増す結果となった。重たいバックパックを背負い、異国の地を汗だくに歩いた苦しみと、悪意に翻弄され欺かれた悔しさのすべてが、帰国のときを経て深い充足へと変わったのである。

 

私は旅をやめることはできるだろうか、とそんなことを考え始めている。仕事と家庭に責任をもち、生活に根を張らなければ、まっとうな人生は築かれていかない。これは古今東西変わらぬことだろう。いつの日かは、まっとうに生きなければならない。しかし、”まっとうな生活”とは何だろう。百姓のように、毎日泥まみれとなって土を耕すことだろうか。同じ大地の上で、一生暮らすことだろうか。

 

あるインド人の言葉がずっと心に残っている。「俺はバラナシで生まれ、俺はバラナシで生き、俺はバラナシで死ぬ。」と男は言った。私は彼の言葉に、ほんとうを感じた。まっとうな生活とは、大地に骨を埋める覚悟から生ずるものではなかろうか。まっとうな生活を築けない人間に足りないものは、己の大地に骨を埋める覚悟ではなかろうか。

 

「己の大地を見捨てないことだ」と智慧は言う。宿命を失った人間は、自ずから大地を捨て、空を夢見てしまった人間と言えるだろうか。私はたしかに夢を見た。空を。風のように異国の地を。だが、これが間違いだったとは言わせるまい。「俺はバラナシで生まれ、俺はバラナシで生き、俺はバラナシで死ぬ。」と言う人間は、たしかに人間だった。彼らのように、いつの日か、己の大地に骨を埋めるために旅はあるのではなかろうか。

 

2024.3.17

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