生と死を生きる感覚について探求したい[92/1000]

秋田県にかほ市の海沿いにいる。

昨日はあまりにも暑く、気温をみたら33度だった。つい3日前、岩手の遠別岳にいたときは、朝起きたら5度で、もう世界はすっかり秋になってしまったんだとばかり思っていた。

 

頭ではそんなことはありえないと分かっている。しかし、不完全な脳は、今自分が足をついて立っているこの世界が、世界のすべてだと認識する。

頭では分かっていても、身体で体感するまで、本当に信じられないのは動物として自然なことだと思う。もともと生きていく上で、遠くの地に嵐がくることより、自分のいる土地の今日の天気はどうであるかを知ることのほうがずっと必要だった。

 

ネットが発達して、本来与えられた肉体の五感を超えて、情報を得られるようになった。世界は途方もなく広くて、今日も色んな出来事が起きている。

遠い外国こと、行ったことがない土地のこと、会ったことがない人のこと、憧れの有名人のことは、どれも刺激的で感動を生む。

 

しかし、今ここで起きていないことは、現実離れしていて、本当の意味で信じることができない。当たり前すぎて、すっかり慣れてしまったけど、繊細に身体に注意を向けてみると、身体に物足りなさや、違和感が生じている。

 

ここにない感覚は、”本当に本当か”分からなくて、感動しながらも、いつも静かに不安を抱えている。それは自分が世界に生きながらも、自分が世界を生きていないような、フワフワとしたもの。

 

その不安を塗りつぶすように、もっと世界のことを知ろうとする。感動や興奮、強い刺激で塗りつぶそうとする。

 

しかし足りていないのは、知らない世界を知ることではなくて、今ここの現実を知って足をつけることだ。

今自分がいる土地の空を見上げて、雲の様子をじっと観察し、足元を歩いているアリを眺め、風を感じ、呼吸に気づくこと。

 

自分の知らない世界を知れることは、大変すばらしいことだと思う。この時代に人間として生まれた我々の特権だ。

しかし、賢さをもちあわせなければ、生きている心地を失いやすくもある。

 

精神修養 #2 (2h/ 13.5h total)

 

起きている状態にもレベルがある。

目を閉じていても意識が鋭いときは起きているし、目をぱっちり開けていても寝ているなと感じることもあった。

 

世界をなんとなく知覚している状態と、知覚した世界に鋭く気づいている状態も違う。

日々は感覚や思考の内側で過ごすけど、起きているようで、実は寝ていると言えるかもしれない。

 

瞑想合宿のとき、耐え切れずチラッと目を空けたら、女性の先生がコクリコクリと眠っているように見えたことを思い出した。

どれだけ意識を研ぎ澄ましても、人間は動物である以上、身体が疲れたら、眠くなる。相対的に、眠たい時の瞑想ほど、鋭い集中力が必要となる。

 

 

1日の中で、瞑想をしている時間がもっとも自分でいられているという感覚がある。

おもしろいことに、瞑想をしている時間がもっとも自由を感じている。

 

胡坐を組み、1時間ぶっ通しで座っていると、終盤は足が痛くなる。いつも左足の感覚がなくなる。

肉体は痛みを伴い不自由を味わうが、精神は肉体の枠組みを超えて自由になる。

 

不自由を嫌う身体は、瞑想をしようとすると「今日はサボろう」と反応した。常日頃、肉体は不快を退けて生きようとするが、その状態はとても不自由だ。

肉体に囚われすぎると、慣習的になりやすく、運命は開いていかないのだと感じている。

 

 

あと、そうだ。瞑想中、怒りの感情がわいてきた。

怒りを感じたことは本当に久しぶりで、でも怒りを感じる場面がなかったかというとそんなことはなくて、怒りを閉じ込めていただけだった。

 

せっかく相手が善意で良くしてくれているのに、ここで怒ったら申し訳ないとか、大人の対応をしなきゃとか、そんなことを思って、ずっとこの怒りを閉じ込めていたのだと知った。

それがふっと湧いてきたとき、その時に足りなかった何かが見つかった気がして、とても生きた心地がした。

 

幸せだけでは息苦しいという友人の言葉が、自分の中でかなり響いていて、生きる上でのテーマの1つになりつつある。

友人繋がりで、長岡美紀先生という方を知って、「人間には、生の衝動と死の衝動の両方があって、この2つの衝動を行ったり来たりするのが人間の本性。でも、現代社会は生への衝動にガタンと傾いている。武士の世界が美しかったのは、この2つの衝動のど真ん中を生きていたから。」という言葉にも出会った。

 

ひそかに自分に感じていた息苦しさや、見苦しさみたいなものは、これだったんだなと感じている。私自身、自分に微妙な違和感をおぼえるのは、いつも生への衝動に偏り過ぎているときで、生の衝動が強すぎるのは、臆病風をふかせすぎて、死への恐怖が強くなりすぎているからなのかな。

 

 

高校生のときのテニス部時代を思い出した。春休みも夏休みも冬休みも、高校の寮に泊まり込みで合宿をしてインターハイ目指して猛練習していた。

先生も厳しく、礼儀も規律も生活も厳格で、頭を坊主にして、まわりからは修行僧みたいな高校生たちだと思われていた。

 

当時は毎日が「死に物狂い」で、コートに向かう時は、いつも今日を生き抜くことだけを考えて足を向かわせていた。

山の中にある高校だったから、持久走も、坂ダッシュも、階段ダッシュもかなり傾斜も距離もあってキツかったけど、自分たちに喝を入れ、腹から声を振り絞っていた瞬間は、確かに命が吠えている感覚があった。(心が折れたときは、命の悲鳴だったと思うけど)

 

いつも1日を終える時は、仰向けになって、陽が沈んだ空を見上げながらストレッチをした。

その瞬間は、大地を背中に感じながら、いつも涼しい風が吹いて、夕の空が広くて、自由で、今日を生き抜いた喜びが胸にじわ~っと広がるのを感じていた。

 

今思えば、こんな日々が生と死が共存した状態だったのかなと思うけれど、微妙に違うような気もしなくもない。ただ何かしらのヒントはあるような気がする。

この経験も踏まえながら、このテーマについて深ぼっていきたい。

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