世界が汚いと感じるなら、自分が世界を美しくするんだよ[36/1000]

1000日投稿、36日目。書くことがない。書くことがないと書いて、本当にそうだろうかと自問する。

心が喜んだり、怯えたりしているかぎり、震えは生まれている。震えをそのまま言葉にすれば、書くことはできる。

 

私よ、震えを感じることを放棄していないか。震えを世界に解き放つことから逃げていないか。

…..うん、図星だ。私はいまとても寝たい。8時間たっぷり寝ても、布団にもぐりたがっている私は、震えを言葉に残すという偉大な作業から、目を背けたがっている。もう今日を始めることを放棄して、布団の中でもぐって過ごしたい。

 

分かるぞ私。その気持ちもめちゃくちゃ分かる。でも残すしか今日を始める方法はない。そして今日は、小淵沢のとむの家に来客があるのだろう。だから書こう。書いて1日を始めよう。

 

おもしろいこと書こうとか、格好いいこと書こうとか、そんな発想はしなくていい。

どれだけ気張っても、コップ1杯の水しかなければ、コップ1杯の水しか差し出すことはできない。クッキーが1つしかなければ、クッキーは1つしか食べられない。

自分の内にあるもの以上のものは、出すことができないのだ。ただ、同じ大きさの同じ震えのものを、そのまま外に残す。私にはそれ以外何もできないし、それ以上の偉業は何もないのだ。

 

 

昨日、長野は富士見の森の中にある、0円空き家に訪れた。

ここは、1か月ほど前に一度見に行ったことのある空き家で、草生い茂る森に位置し、屋根から木が生えているように見えるくらい、笑っちゃうほど人の手がついていない。

 

標高1000mのリゾート地で、夏でも涼しく気候は最高だし、近くには温泉と洒落たカフェが1つある。しかし、家がとても住めるような状態ではないことから、私以外欲しがる人は誰もいないだろう、と担当者の方に言われていた。

私は家がボロボロだろうと、手を加えることを前提としていたし、森の中に人を迎えられるような拠点をもちたいと考えていたので、この森にある空き家を磨けば輝く原石のような場所だと感じていた。

 

草をかき分けながら、家をぐるっと回っていると、以前は見逃していた窓を見つけた。窓は少し高い場所にあったので、中をのぞくことはしなかったけど、窓のすぐ内に草が生えているのが分かった。

それ以上は見なかった。私は怖かったのだと思う。家の中をのぞいて、動物が住んでいたら…..とか、森になっていたら…..なんて想像すると、心をへし折られそうだった。

しかし、見るべきだった。見たくないものも、ちゃんと見ないと前に進めない。

 

 

気持ちの割合として「興奮90 不安10」くらいだったのが、「安心10 迷い10 不安80」になった。

安心は、森が相変わらず綺麗だった安心。迷いは、本当にここでいいのかという迷い。不安は、実際にコイツに手を加えて自分の思う場所になるのだろうかという不安。

 

来る前「思い出は美化されるから、決める前にもう一度見に行ったほうがいいですよ」と担当者の方に助言されていた。言われたとおり、しっかり美化されていた。

現実は、住むことすらできないボロボロの空き家が目の前にある。森にも木が多すぎて光が入ってこない。これはどう見ても、美しく思うことはできない。美化された理想と、汚い現実に、ショックを受けた私だった。

 

しかし一方で、これは当たり前のことなんじゃないかとも思った。

ゴミが落ちているのが嫌なら、ゴミを拾うしかない。汚れているなら、磨くしかない。壊れているのなら直すしかない。自然に元気がないのなら、人の手で助けてやるしかない。

 

美しい世界に生きたいと思う。しかし、美しい世界に生きるとは、今この瞬間、綺麗な場所に身を浸すことではない。

今この瞬間の姿が、苦しくても、惨めでも、カッコ悪くても、汚くても、そんな現実に目を背けず生きるから、世界は綺麗になっていくのだ。

 

街が綺麗なんじゃない。皆が街を綺麗にしたのだ。あの人は最初から美しいのではない。美しい人間になったのだ。

家とか土地を探しながら、気に入る場所を見つけようとしてきたけれど、実は気にいる場所に自分ですることのほうが大事なんじゃないかという気持ちになった。

 

自分でやる。自分がやる。自分が綺麗にする。そんな姿勢でいたい。

 

 

やばい、そろそろとむの家、来客の時間。

最後、駆け足ですが、ここらで今日は終わります!

また明日!ばいばい!

1 個のコメント

  • おはようございます。たまたま再度閲覧しててこの記事が目に入り、カキコすることにしました。
    要するにここに管理人さんが書かれたことは断〇離精神と通底するものがあると考えます。
    いわゆる<汚部屋・ゴミ屋敷>状態の家よりも、有効活用されるべきものがため込まれている家の方が感覚的にきつい場合があり、それは家主の人生への向き合い方と比例する傾向があるように思います。
    勿論、宇宙は解けない課題は出さないので、断〇離する気が起きない人には不思議といつまでたっても周囲から新陳代謝を促す働きかけが無かったりしますが、それを引き起こしているのも本人の自覚なのだということが有る程度わかるまでは、汚部屋に住んでも良いのです。宇宙は愛で成り立っていますので・・・。表現がキツイと感じられたらひとえに筆者の責任です。ゴメンナサイ。乱文乱筆失礼。

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