生と死を繰り返す宇宙の流れに溶け込んで。早く死んで楽になろう[199/1000]

正月の余熱もすっかり冷めて、世間は少しずつ平常運転に戻っていく。賑やかな時の後に訪れる寂しさは慣れないが、次の祭事までのチャージ期間である。感情を自分のものにしようとすればおかしくなるので、ただ透明になられたい。喜びも寂しさも心を通りすぎて宇宙に還っていく。

祝いの場は、生の極性が凝縮されたような時間である。暖を取り、ご馳走をいただき、孤独は溶解し、生の極性に身体は馴染んでいく。一方で、肉体が生に馴染むほど、死に向かえなくなってしまう。生と死はリズムである。リズムが崩れるのは、どちらかの極性に傾き続けたときだ。私自身、寒さに弱くなり生に留まろうとする自分を体験している。

 

「我人、生くる方がすきなり。 多分すきの方に理が付くべし。」葉隠のこの言葉が、しょっちゅう頭をよぎる。生に固執するほど、生に留まるべき理由は無限に生まれる。これを言い訳という。言い訳が見苦しいのは、生にすがりつく様が美しくないからである。潔く死ぬ姿は難しいがカッコいい。

生きるための理由は無限に生まれ、正当であるように暗示されるが、冷静に死ぬべき理由も探してみれば、同等かそれ以上に見つかる。生にも死にも加担せず、リズミカルに生きるには自然のように透明になることだろうか。春夏秋冬の内に、木々も花も野菜も、美しく咲いては、生に抗うことなく散っていく。自然界は生と死のリズムが交互に刻まれていて、ひたすら透明である。この宇宙の大きな流れに溶け込みたい。自然は最高の師である。思い出してみれば、我々人間もまた自然のはずである。

 

これからどうやって生きていくか考えている。昨年の12月25日まで諏訪湖で孤独な時間を過ごした。諏訪湖から離れる一週間ほど前に、少し離れた場所に100坪くらいの山林を見つけた。小さな小屋を建てるには十分な大きさであった。標高は1,000mを超えて、辿り着くまでの道は凍っていて、山は雪で覆われている。今の車では辿りつけないので、小屋を建てるのは春まで待とうかとも思ったが、これも生きる方に理がついているのだろうかと思い直している。

やらない選択肢はないはずであるが、問答無用に死に突き進めない私は損を恐れている。死にたくても死ねない状態は苦しい。早く死んで楽になりたい。親は私を生かそうとする。崖から突き落とすように死なせてくれる人間がいたらどれほど有難いことかと思うが、これも甘えなのだろうか。自分で自分を崖から突き落とせる人間が強い人間なのだろうか。

 

しきりに何のために生きているのか分からなくなる。この問いは死ねない時に生まれるものなんだろう。いつも生きる理由は死んだ後に生まれる。緊張を乗り越えた先の出会いとか、プレッシャーの中やり遂げた仕事とか、神は自分を殺しにかかり、その褒美として感動を与えてくれるように思う。

自然界は生と死のリズムにある。生に留まろうとする人間を、自然界は見逃すことなく死なせようとする。これがどれほど有難いことか。早く死んで楽になりたい。どうか自分を死なせて楽にさせてください。

 

精神修養 #110 (2h/227h)

人といる時間が長くなるほど、瞑想の静寂だけでも有難い。何もせず呼吸をただ感じている時間は、喧騒によってバラバラになった自分が一つになる感覚がある。瞑想の目的の一つは死身となることである。死身となることの目的は決断の場面において死ねる方を選択できるようになることである。瞑想の非現実は現実の裏側にあるもので、瞑想そのものが現実となれば、ただ浮足立って見苦しくなってしまう。

呼吸が意識に埋もれていく。掘り起こしても埋もれていく。呼吸が埋もれていけば、次第に睡魔に襲われて、意識が飛んでいく。こんなことじゃダメだと抵抗する。実家に帰省してからこんな瞑想ばかりになってしまったがどうしてだろう。ちゃんと寝ている。ならば口にするものが影響しているのだろうか。食べたものがそのまま意識状態にあらわれているのだとしたらおもしろい。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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