「無私」と「我」について[585/1000]

「どこから来た」

と訊ねてくる。

「どこからだと思うか」

かつて日本の大学で古代ギリシャ語なるものを学んでいたことのある彼が、たどたどしい現代ギリシャ語で答える。とたんに、周囲で声が上がる。

「この客人はギリシャ語がわかるぞ」

みんなが彼の周りに集まってくる。お前はドイツ人だろう、いやイギリス人だ、と勝手なことを言う。外国人というものを見たこともないような人々なのでわからないのだ。

「日本人だ」

彼が明かすとその喫茶店中が大騒ぎになる。

「イアポニア!イアポニア!」

自分の遠縁のナントカが日本に行ったことがある。自分の友人のカントカが日本製の小さなラジオを持っている。口々にそんなことを言い、さらに嵐のような質問を浴びせかけてくる。

沢木耕太郎「深夜特急5」

 

「我」とは、もともと健気で無邪気なものだったにちがいない。”私”の行為であるゆえ、”無私”の無色と比べれば、色はある。だが、淡い空にかかる虹のような素朴な色合いをしていたにちがいないと思うのだ。

かつて物も貧しく、外国人が珍しかった時分、われわれは素朴な好奇心を、異邦人に向けた。沢木さんの「深夜特急」には、無邪気で可愛げのある外国人が頻繁に登場する。彼らの「我」は素朴をわきまえている。ゆえに、彼らの振る舞いにはどこか健気さがあって、話を聞いていると温かい気持ちになる。

 

間違っても、今日の人間が先進的であると言いたいわけではない。

かつて鎖国下で外国人も見たこともなかった時代、われわれ日本人も彼らと同じように、はじめて見る白人に好奇心を示したにちがいない。テレビすらない時代だ。海の向こう側に広がる、外国は未知と神秘に包まれていた。そんな時代に、はじめて異邦人を見た日には、「お前はどこからきた」「お前は日本語を話すのか」「お前の国に武士はいるか」「お前は芸者が好きか」などと、相手の国に興味を示しつつ、自国の文化を誇らしげに自慢したにちがいないと想像するのだ。

ここに我の可愛らしさがある。素朴に関心を抱きながらも、つい自国のことを自慢してしまうのだ。我とは、そういう子供らしく、可愛げのあるものだったのではなかろうか。我は我でも、”民族的エゴイズム”もしくは、”国家のエゴイズム”、換言すれば、「誇り」といえるだろうか。

 

 

世事には距離をおく私だが、芸能人のゴシップは相変わらず、世に受けているらしい。ネットには誹謗中傷も殺到する。誹謗中傷する彼らも彼らだが、全体を俯瞰してみれば、「私」の行いに「私」が悲しみを嘆いているようにも見える。

われわれの根源は一つである。「無私」の行いとは、根源を目指すことであり、われわれは一つであると歌うことである。一方、「私」の行いとは、われわれは一つではないと、他者を退けることである。ゆえに、別の「私」は悲しむ。悲しみを素直に表現できず、誹謗中傷を生む。

 

自我やエゴイズムは、淫蕩な存在である。この淫蕩を取り締まるのが、自我の外にある、より大きな精神的存在であった。

かつて素朴な時代、異邦の旅人に好奇心を示した「我」のなかに、人間の温もりを感じるのは、死を象徴する精神性のほころびから、生にこぼれおちた熱だったからだと思う。死の世界の冷たくて暗い世界のなかに、温かい我があるから、可笑しいし、可愛いし、人間味があるのだ。

 

いずれにせよ、素朴な慣習を重んずることだ。我をなくすことなどできないのだから、せめて素朴な我を愛してやることだ。欲望の無邪気で可愛げのあるところをみてやることだ。ちょうど、無我夢中に励んだけん玉をはじめて成功させた子どものように、素朴な喜びに幸せを感じることだ。根源は一つである。それを覚えていることだ。

 

2024.1.26

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