少食が運命を開く!断食についての考え[51/1000]

1000日投稿、51日目。今日は、断食dayにする。

何も食べない。塩だけ舐める。水だけ飲む。

・・・と言いながら、進行形でコーヒー飲んでるけど、まあ、ブラックだから、よしとしよう!

 

 

基本的に、1日1食で生きている。

玄米と味噌と少しの野菜、、、、が理想だが、今は車で暮らしていて、お米を炊くのが面倒で、玄米の代わりにオートミールを食べている。

 

ほんとうは、玄米がものすごく食べたい・・・!でも、水でふやかせば、10秒で食べれてしまうオートミールの便利さに、甘えてしまう。

オートミールの栄養価は玄米に等しいと言われているけど、私の場合、玄米を食べた時の方が、身体はずっと元気になる。

 

疲れて食べすぎてしまったときや、人にご馳走してもらったときは、普段より食事の量が増える。そんなときは、身体の様子を見ながら、こうして1日断食を決行する。

「食事の質」は大事だけど、それよりもまずは「食事の量」を大切にする。

 

今、冷蔵庫にはオートミールと、梅干しと、発酵あんこと、味噌しかない。

冷蔵庫は、最低限のものしかないが、最低限のものしかない感覚は、とても清々しい。

 

食べなくても、食べ物を腐らせる心配がないから、食べ物に追われる感覚がない。

「冷蔵庫にあるから食べなきゃ」みたいな感覚が、命に対して不敬であるように感じて、あまり好きじゃないのだ。

 

 

こうして食事の量にこだわるのは、少食の方が心身ともに元気でいられるから、ということもあるけど、少食が運命を開けると信じているから、ということもある。

少し大げさかもしれないけど、食べたら何もしなくても満足しちゃうから、たくさん食べてたら、たくさん食べてるだけで、気づけば何の挑戦もなく人生が終わってしまうような・・・・・そんな気がしてる。

 

引きこもりのときの自分が、まさにそうで、いつも不安を紛らわすために、何かしらの食べ物を口にしていた。食べている間は、副交感神経が優位になって、リラックスできる。

リラックスできると、何もしなくても安心できて「まぁいっか」みたいになる。これを、毎日繰り返したら、何もせず、1日が終わって、気づいたら1年近く経っていた。

 

そんな時期もあって、なおさら、食べることは、1日をちゃんと生き切った後の、夜だけでいいと思うようになった。

腹を空かせているときのほうが、野性でいられる。

 

・・・でも最近は、暑さにやられると、日中でも、冷たくて甘いアイスが食べたくなる!ストレスがかかると、身体は猛烈に食べ物を要求してくるので、この辺りは難しいなと思う。

 

人の身体は吸収と排泄を同時に行うことができない。

例えば、朝、息がくさいのは呼気によって、排泄が行われているからだけど、息を吸いながら、同時に息を吐くことはできない。

 

食べる量や頻度が増えれば、排泄は間に合わなくなるので、少食は理にかなっていると、日々の生活から感じる。

 

排泄が間に合わない毒素は、都合よく消えてくれるのかというと、そんなことはなくて、身体のどこかで何かしらの形で帳尻を合わせることになる。

これは、人によって違うことを最近知った。

 

例えば、私の場合は、顔に出やすい。

私の身体は、いもいも教室の井本陽久さんにも「健康体とはこういう身体なんだよね」と絶賛してもらえるくらい、瑞々しく、筋肉もほどよくついているが、顔の方の肌は荒れやすく、血色も悪くなりやすい。

 

これは仮説だが、顔に出やすいのは、一人の時間多く、表情が動かない時間が長いことが理由の1つだと思っている。

教員時代は、授業でよく声を出して表情も豊かだったので、今よりひどい食習慣だったが、肌が荒れることはほとんどなかった。代わりに吃音は悪化して心は病んでいったが・・・。

 

流れる水は腐らないが、たまり水は腐るのと同じように、動きが滞った部位で、排泄できなかった毒素の、帳尻合わせが行われるのだと思う。

よく動いて、よく伸ばして、よく笑えば、血行もよくなって、身体から毒素は抜けやすくなる。

 

しかし、それよりも根本的に食を絶って、毒を入れないことが一番身体の助けになる。

これ以上書くと、世界の闇が、色々面倒なので、このくらいにする。

 

 

最後に、ルイジ・コルナロ著の「無病法」の一部を紹介して、今日のブログは終わりにします。

ルイジ・コルナロさんは、16世紀のイタリア貴族で、極少食で102歳の天寿をまっとうされた方です。

いうまでもなく、不節制が飽食へとつながることは、世のだれもが認めている事である。しかしながら、世間には習俗や通念というものがあって、それによれば不節制すなわち飽食はむしろ良いことのように思われているふしがある。反対に、節制すなわち少食といえば、往々にして、なにか身分の低い者がすることか、あるいはけちな人種の行為のようにみなされている。

 

健康で長生きし、しかもその間に病気ひとつせず、最後には平和のうちに静かに息をひきとる、といった幸福な生涯を願う者はだれでも、飲食を最小限の量にさだめるべきである。そうした生活では、血液が汚れることはなく、また胃から頭へのぼる悪気もなく、心はつねに穏やかで、気分は妙なる悦びに満たされている。

 

なんの助けもなく馬に乗ることができるし、階段はいうまでもなく、山にもやすやすと登ることができる。気分はいつも陽気で、心が曇るようなことは一時もない。生への倦怠や生活の疲労など、私にはまったく無縁である。一日の内かなりの時間を見識ゆたかな人々との間の楽しい会話で過ごし、それ以外のときには、良書を友としている。そして読書を味わった後は、ペンをとっている。執筆こそ世の中にもっとも役に立つことだと思っているからである。

 

前回断食したときは、晩にサウナに行って汗をたくさんかいたが、塩をまったくとらなかったおかげで、翌日力が入らず、ふらふらだった。

今日の断食は、ちゃんと塩をとるぞ!・・・私の大好きな人がいい塩を買ったという話を今朝知って、今、いい塩がとても欲しいです!

 

まだまだ暑い日は続くので、断食しない方も、ちゃんと水と、塩をとることをお忘れなく!

ではまた明日!ばいばい!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です