呼吸のあるところに魂はあり、呼吸のないところに魂はない[177/1000]

葉隠の一句に「恋の至極は忍ぶ恋と見立てし候」とある。

いっさいの秘密を知ってしまえば、恋の背丈は小さくなる。忍ばれなくても恋の背丈は小さくなる。知りたくても知られない。言葉にしたくても言葉にできない。それでも対象のことを知りたいと思い焦がれることに、純粋なエネルギーは蓄積されていく。葉隠は、一生忍んで思い死にすることが恋の本意だという。忍ばれる恋こそ純情であり、対象と苦難をともにする尊い覚悟でもある。

恋と混同されがちなのは欲望だと思う。自分のものにしようとか、自分のものにできると思ったとき、対象への恋は欲望に変化する。恋は魂のものだが、欲望は肉体のもの。恋は霊性を失ったとき、さめてしまうものだと思う。

 

対象のことを知ろうとする究極が、対象の呼吸を感じようとすることだと思う。呼吸を知りたくて本を読み、音楽を聴き、実際に楽器を弾く。対象の息遣いが分かると、そこに宿る意志や、優しさ、さらに大きな魂に触れることができる。法を身とする上で、実際にその法に生きた人間の息遣いを知ることは実際的な助けになる。これは最近、瞑想をしていて発見した法を身とする実践手段だった。

呼吸には無意識に行われるものと、意識的に行われるものがある。呼吸のあるところに魂はあり、呼吸のないところに魂はない。仕合せとは呼吸がある状態を指し、不仕合わせとは呼吸がない状態を指す。人が呼吸を忘れるほどに、魂が失われていく感覚がある。また私自身、朝夕瞑想をしていながらも、不仕合わせに苦しんだのは、日中呼吸が失われていたからだった。歴史に名を残すような偉人たちは一人の例外もなく、常に呼吸と共にあった。常に魂と共にあった。これは断言できる。

 

自分はなくならない。自分からは逃れられない。同じ法に生きる呼吸一つをとっても、肺活量、内臓の形や大きさ、筋肉、若さの違いが、個性となってあらわれる。自然の法は純粋に存在するが、それを個別の肉体に落とし込もうとするとき、個体差は必然と生じてしまうものだ。純粋なものは一度、不純な形となって人間に与えられる。この宿命の上に立ち、いかに純粋に近づいていけるかが、魂に生きる人間に課せられた使命なんだろう。

己の呼吸を知らなければ、法に宿る息遣いも感じることはできない。呼吸に気づいていることから始まっていく。

 

精神修養 #87 (2h/182h)

金剛般若経の「法を身とする」意味を頭では理解しても、身体では分からないところがあった。葉隠も頭では理解できても身体では分からなかった。

1つの答えは、葉隠に生きた人間たちの息遣いをおぼえることだった。山本常朝、西郷隆盛、乃木希典、三島由紀夫といった人物の息遣いを知るためには、相当読み込む必要がある。

同じ葉隠に生きた人間も、呼吸のスピード、厚み、色、温度は、人によってすべて違う。それが人間の個性である。法を身としても、自分が消えるわけではなく、この身で生きる宿命からは逃れられない。

 

[夕の瞑想]

・対象の呼吸を知ろうとすると、入魂となり、自分が消え、対象の魂と一体となった感覚をおぼえた。

・仕合せとは呼吸がある状態を指し、不仕合わせとは呼吸がない状態を指す。

・現代人の大半は、呼吸を失っている。呼吸のないところには魂もない。

・ブッタやキリスト、歴史に名を残す偉人たちは、常に呼吸があった。

・呼吸を知りたいという想いが恋の究極。だから葉隠は恋の哲学といわれたのだろう。

・本を読んでも、映画を観ても、音楽を聴いても、いつも呼吸からその人間の魂を感じていた。物語には人間の呼吸がある。

・まだまだ呼吸には秘密が多い。

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