自由と愛に生きる人生に憧れている。[198/1000]

物置小屋と塀をつくり終え、入れ替わるように仕事が再開する。仕事は好きな場所で自由にやらせてもらっている代わりに、頭だけ動いて身体は置いてきぼりになりがちである。

頭で考えず言われるがままに肉体労働をすれば奴隷のような苦痛を被るが、頭だけ働いて肉体が動かなければ、今度は頭が肉体の奴隷になっているともいえる。積極性は心身の一致を生み、消極性は心身の分離を生むように、考えることと身体を動かすことの両者にも対等な関係が築かれなければ、何かが欠けているような気持ち悪さをどうしても感じてしまう。

 

この差分を、運動や読書で埋めようとするが、栄養サプリを取ることと似た印象を受ける。全体性を失った食事の代わりに、欠けた部分を外部で補おうとするが、そもそも米も野菜も魚も丸ごと食べていれば、お金をかけなくても自然のままで完成されている。殻を取ったり、皮をむいたり、頭や内臓を取り除いたり人間が美味のために、都合よく手を加えるから全体性が失われ不足が生まれる。

 

気持ち悪さから逃れたく、何かをつくりたい衝動に駆られていた。物置小屋と塀が完成した時はなんとも生きた心地がした。隣に目をやれば、母に頼まれて夏につくった畑がある。他界した祖父の家が取り壊されるということで、祖父が育てた畑の土を軽トラをレンタルして手作業で運んできたものだった。トラック一杯分の土を運んだときは汗が滝のように流れたが、汗が流れるほど力が漲って元気になるという不思議を味わった。畑が完成した時はなんともいい働きをした感触があった。この生きた心地や、気持ち良さに本当の自由があるように思う。この自由は奔放のものと異なり、愛と限りなく近い。

 

自由の衝動に駆られる私を眺めながら、都合がいいとも感じている。諏訪湖の孤独では、葉隠の教えのとおりに、入念に自分を死なせるよう努めてきたが、祝いの贅沢で自分はすっかり生の衝動に染まった。一年前、仕事もなくただ空虚な時間を過ごしていたときは、服従の衝動に駆られていた。服従の衝動が満たされた今度は自由の衝動を欲するなど、虫が良すぎるのである。振り子が左右に触れるままに、その時々の不満を嘆いていれば、都合のいい自分が膨れ上がる一方ではないか。身の程も恩も忘れれば、自然の法からは遠ざかるのは明白であった。

 

自由は自然の法だと思う。自分が生きる時、自由は奔放的なものとなり、純粋な愛からは遠ざかる。自由を焦がれる自分はいるが、衝動任せに自分が求める自由を追い求めても、そこに本物の自由があるのかはまだ分からない。

自由と愛に生きる人生に憧れている。明確な道筋が見えているわけではないが、日々自分を死なせ信仰に生きることがその道であると直感している今は、そのように生きていくしかないのかな。

 

精神修養 #109 (2h/225h)

緊張とは、死に向かう時に生に向かおうとする、肉体の最後の抵抗である。緊張とは、生と死の張力が最も激しい一点である。

現代のリラックスの大半は、生のリラックスである。しかし激しい一点を超えた先には、死にもリラックスがあるような気がする。緊張の一点を通りこした静けさであり、それが死身の状態であろう。言い換えれば「死んで楽になる」状態なのだと思う。生の世界から見れば気違いの沙汰であることは間違いない。

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