インドは三大うざい国など言わせるものか【インド紀行⑧】[623/1000]

巷ではインドは三大うざい国と言われている。しかし、今日の僕は、これがいかに物質主義に傾倒した見方であるかを思い知っている。今僕は、涙が溢れて仕方がない。インドという国の見方の内外が、ついに反転したのだ。仮にもインドに来て、まだ2日目の人間の言葉であることは断っておくよ。でも、森で一人隠者をやってきた僕には、ここ、インドという国が「信仰の厚い人間が何よりも敬われる国」であると感じるのだ。

 

彼らのなかには、観光客を騙す者もいる。金を少しでも、多く得ようとする。こうした行為を見て、彼らに信仰がないと判断するのは浅はかだ。彼らは堕落している。それは間違ない。彼らの論理はこうである。西洋文明の物質主義に堕落し、魂を売り、金を得た豊かな国の人間から、金をもぎ取って何が悪い。だが、もし君が聖性を重んずる人間であると知ったなら、彼らは君から金を取ろうとはしないだろう。これは僕が何度も体験している。悪意を持って近づいてきた人間には、こちらも足を止めて相手の目を見て、深い呼吸をし、敬虔に合掌する。小さく頭を下げても、黙想してもよい。神に祈りを捧げるように、相手の紙を敬うように。すると、彼らは一人の例外もなく、悪意の手は引き下がっていく。中には神妙な顔つきになり、挨拶を返す者まである。

毒蛇を追い払うように、NOと語気を強める必要などどこにもない。仏に接するような穏やかな気持ちで、手を合わせればいいのである。

 

冒頭にも書いたように、所詮はインドに来て2日目の戯言かもしれない。信仰を重んずるが、これがインドであると断言できる日数は滞在していない。だが、もし本当に彼らの聖性が生きているのなら、私はこの国の素朴さを生涯愛すると思う。

 

***

 

同じ部屋に留まるインド人の青年に私の行為と考えについて質問すると、合掌には聖性もあるが、それは寺にかぎったことだという。それ以外は「ナマステ」を意味するという。私の合唱は日常的なものではなく、非日常的なものの意味合いが強くなっていたと考えられる。この真相は滞在中に明らかになっていくだろう。

 

2024.3.4

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です