花や小鳥を愉しむ一方、食うため獣を殺める残酷さを、本来生活は孕んでいる。[969/1000]

あかるい炎よ、お前のなつかしい、人生を映す、身ぢかな同情は

わたしに拒まれてはならない、

わたしの希望のほかの何がそんなに燃えさかったであろうか、

わたしの運命以外の何がそんなに夜、消えしずんだであろうか

なぜお前はわれわれの炉と広間から追いはらわれたのか

みんなに歓迎され愛されたお前が?

かくも単調なわれわれの生活の平凡な光りには

お前の存在はあまりに空想をそそるものだった、

お前のあかるいかがやきはわれわれ気の合った魂たちと

神秘な交わりを、あまりに大胆な秘密を、取りかわしたのか?

 

ソーロー「森の生活」

人生は一行のボードレールに若かず、と芥川龍之介は言った。音楽の才も、絵画の才もない私もまた、この言葉に共感する部分を少なからず持ちあわせているのは、なんと仕合せなことかな。芸術至上主義というと堅苦しく聞こえるが、死んだら何の価値もなくなる(生もまた何の価値もない)虚無主義に抗う気概があれば、この貧弱な人生の一片を大いなる大海のどこかに突き刺してやりたいと願うのは、人間としてなんら特別な願いではないだろう。

 

だが私は、人生に芸術を欲するのと同じくらい、実際的な暮らしにも価値を感じている。自分の手で米や野菜をつくること、木や花を植え育てること、山に潜って山菜を取ること、鹿や猪を狩ることは、古来人間がしてきた当たり前の慣習である。

今日に至っては、実際的であることも突き詰めれば、かぎりなく芸術的な生き方に近づいていくよう感じるのは、中庸ともいえない力のない生き方が、当たり前になってしまったからだろう。生命が突き抜けないところには惰性の人生があるし、精神が立たぬ人生は張り合いがない。実際的な生活は生命を賦活し、血と肉を滾らせる労働は精神の力そのものとなりうる。

 

花や小鳥といったちいさな生命を愉しむのと同時に、食うために獣を殺す残酷さを、本来生活は孕んでいる。生だけに触れていれば生命は形を失うが、生と死が混在するところでは息を吹き返すのである。元々人間は、そういう存在である。芸術家だとか生活者だとか、そういう区別はなく、生きるという命の営みのなかに、全部混在していたのである。おれは尊敬すべき爺ちゃんを知っている。山でキノコを採ることに熟知し、家は全部自分でつくり、臆することなく猪をさばき、鹿のしゃれこうべを飾り、でっかい御影石を山から拾ってきては、赤松の植えられた庭に風流に飾っている。森に家をつくっていたら、そんな爺ちゃんと親しくなった。生活も突き詰めれば芸術と一点になると信ずるのも、爺ちゃんを見てのことである。

 

2025.2.14