自然の哲学[346/1000]

坂口恭平さんは、ホームレスと出会ったことで、世界に重層構造に気づき、それをレイヤーと呼んだ。学校社会の延長線上にある、常識、普通、当たり前に満ちたレイヤーは、皆のものであるが自分のものではない、いわば匿名レイヤーとして存在する。これは、日本中に塗装されたアスファルトの道路のようなもので、安心で、楽で、何も考えなくてもよいものである。

 

これと同じものを、高野雅夫先生は「日本国」のレイヤーと言った。日本国は、簡単に言ってしまえば、カネの世界である。労働、消費、罰金などすべて、活動は金に帰着していく。原発を論じるにも、哲学や倫理や自然は置いてきぼりとなり、経済の話にすり替えられる。

 

日本国に連なるレイヤーには「村」があり「生国」がある。村は、村社会のことで、生国は、命の世界のことである。これは、坂口恭平さんの”独自レイヤー”とは違ったものであるが、「日本国」からの救済という点で似ている部分は多い。

現代の日本で田舎に住んでいるということは、「生国」、「村」、「日本国」の三つのレイヤー(層) が畳み重なったところで暮らしていることになると私は考えている。「生国」とは生態系の一員としての人間ということ。「村」は田舎の自治コミュニティの一員であるということ、「日本国」とは経済・社会・国家の一員であるということ。

高野雅夫, 「自然の哲学 おカネに支配された心を解放する里山の物語」

 

「日本国」は基本的に生まれてから死ぬまでの間のことしか視野にないわけである。「日本国」のレイヤーのみで暮らしていると、生きていることがすべてであって、死んだらおしまいだという価値観になっていく。

高野雅夫, 「自然の哲学 おカネに支配された心を解放する里山の物語」

 

かつての「村」では、氏神様への信仰が人々を結びつける物語だった。

高野雅夫, 「自然の哲学 おカネに支配された心を解放する里山の物語」

 

地域住民に問われているのは、これからの町を「おカネ」の物語に沿って運営していくのか、「いのち」の物語に沿ってやっていくのか、ということだ。いまがその分岐点だ。戦後はずっと「おカネ」の物語に沿ってやってきた。確かに立派な道路ができ、農地は区画整理され、公共施設も整った。その一方、森は人工林だらけになった上に管理放棄され、山から山菜やキノコが消え、川から魚の姿が消えた。どれほど村におカネをつぎ込んでも、子どもたちが都会に出ていく流れは止められなかった。このままいけば立派な道路の先に誰も住まない廃墟となった消滅集落が連なることになる。いま、「おカネ」の物語から遠ざかり「いのち」の物語に近づこうと都会から移住者が来るようになった。慣れない手つきで地元の人に教わりながら借りた畑で農作をする姿がある。自分で育てた野菜をいただいて自分の生命をつなぐ、ささやかな「いのち」の物語をつむぐことで、自分の心の中心にある「おカネ」の物語を書き換えようとしているのだ。

高野雅夫, 「自然の哲学 おカネに支配された心を解放する里山の物語」

 

私はかつて「とむの家」と称し、森や海や湖に人を招くという活動を行っていた。当時は言葉になっていなかったが、私が行いたかったことは、日本国の「おカネの物語」に殺されそうになっている人間を生国の「いのちの物語」に誘い出すことだった。

 

日本国に頭が凝り固まると、金がなければ生きていけないと思うようになる。そうなれば、毎月おくられてくる光熱費の明細を見るだけでも、不安を煽られてしまうものだ。しかし、日本には全国あちこちに、今この瞬間も美味しい湧水が垂れ流されており、空になった焼酎ボトルや、ホームセンターで数百円で買ったポリタンクでも持っていけば、水を好きなだけ確保できる。それもかなり美味い。

全国のあちこちの湧き水をめぐる中で、そうやって生きてる人間も少ないことを知った。いい湧水スポットを見つけると、ここの地元住民は美味い水がタダで手に入って幸せだなと思うのだけれど、不思議なことに日本国に染まっていると、地元に湧水があることさえ無関心で、当たり前のようにスーパーで水を買っている。

 

去年の夏、新潟の柿崎でキス釣りをしながら過ごした。アオイソという、うじゃうじゃした餌を300円で買って釣りをする。初めて行ったときは3匹しか釣れず、そこで出会った師匠に「お前のキスは一匹あたり100円だな」と笑われた。しかし、段々とコツをつかみ、同じ300円の餌で20匹くらい釣れるようになった。1匹辺り15円の計算になる。

釣ったキスを刺身で食べようと、スーパーにワサビを買いに行くと、妙な感覚に襲われた。こんなに海が近いのだから、きっと鮮魚コーナーは地元の魚であふれているだろうと勝手に想像していたのだが、覗いてみると、遠洋から輸送された魚ばかりが並び、私の故郷、岐阜のスーパーと変わり映えしない光景が広がっていた。この時、生国から日本国に連れ戻された感覚をおぼえた。

 

生国にふれていると、いのちの物語が体内に流れ始める。その体験を1つずつ知っていくと、お金や常識で凝り固まった頭がほぐれていき、感情が生まれ、生の世界に関心が向かっていく。動物はお金がなくても幸せそうに生きているという当たり前すぎる事実がどうして人間に当てはまらないのだろうということを真剣に考えはじめるようになる。

そして、日本国と自己の生命との間に距離が生まれ、自己の生命の形を認識し、ここだけがすべてではないことを知る。詐欺でお金をだまし取られたから命を絶つとか、お金を奪うために人を殺すとか、お金を稼ぐために森を破壊するとか、全ては日本国の中では当たり前に起こるが、村や生国から見れば狂っているのである。

今やってる仕事が、今住んでる場所が世界のすべてではないのである。

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