つまらぬ人間となるか、じめじめした人間となるか。[442/1000]

森の家づくりの外側がひと段落し、はじめての感動とともに燃え尽きていたが、冷静に家の中を見つめると完成までは、もう一疾走しなければならない。

以降の工程は、床→ベッド→本棚→机の順に進め、窓、ドア→塗装→装飾の順にやっていく。ちょうど近所で家をたてている大工さんにお願いしたら、捨ててしまう端材やパレットを大量にくれた。掘っ立て小屋は、穴を掘って柱を直接うめるので、地面がむきだしであることが多く、私は寝るとき以外は靴を履いて生活するつもりであった。しかし、意外と土煙が舞うことと、予定外にもコンパネが手に入ったことで、床をつくる計画に変更することにした。

 

だがどうも、なんだか燃え尽きたようで、体に力が入らない。100%調子がいい日には100%の力を出せても、40%や50%の日には、それ以下の力でやってしまう人間が多いとイチローは言う。波があることは仕方ないのだ。しかし、少しでも調子が悪いと、40%や50%すらも出せなくなってしまうのが、人間の克服すべき弱さであり、40%や50%の日であるなら、40%や50%の力でがんばれというのが、イチローの教えである。

 

私はこの話を思い出しながら、不道徳にも家づくりをサボることにした。20%くらいの余力はあったので、20%でも手を動かしていれば、今晩寝るときには自分を認め気持ちよく寝られるはずだった。だが、教えに従うことのジメジメした感覚にはうんざりするところもあり、カラッとした爽快感が欲しくなったのだ。そうして、久しぶりに森から抜け出し、空が広く青々とした山の見える普段行かない場所へ行った。

だが悲しいことに、やはり私は根っからの善人であるようだ。ただでさえ仕事をしていない私は、1日働かなかっただけでも大きな罪悪感にさいなまれ、燃え尽きと相まって久しぶりにどっぷりと気持ち悪い気分となった。この善人性から生じる罪悪感は、いったいどれだけ人間を苦しめ、どれだけ人をみみっちくするのだろうか。

 

この期に及んでも、まだ悪に救いを求めている。襲ってくる罪悪の重荷に潰されず、「そんなことどうってことないね」と笑って跳ねのけてしまうのである。お前に足りないのは不徳である。正確にいえば、怖れながら不徳を為すのではなく、笑いながら不徳を為すことである。その悪の力だけが、惨めとなった善人に爽快な風を吹き込むのである。つまらぬ人間となるか、じめじめした人間となるか。

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