愛されたいなどと思い上がらないこと[148/1000]

かさじぞうのお話が、何度も思い出される。

貧乏なおじいさんとおばあさんが、正月の餅を買うつもりで笠を作り、おじいさんは町に売りに行く。雪が降り始めたので急いでいると、道の脇に6つのお地蔵さんが佇んでおり頭に雪が積もっている。あまりに寒そうで不憫に思ったおじいさんは、売り物の5つの笠をお地蔵さんの頭にかぶせてやり、6つ目のお地蔵さんには自分の笠をかぶせてやった。おばあさんは、じいさんの話を聞いて、良いことをしたと喜び、おもちなんてなくてもいいですよとニコニコしながら言った。その晩、お地蔵さんが恩返しに餅やごちそうを山のように家に届けにきたというお話。

 

昨日、黒糖かりんとうと珈琲を頂いていると、なんだかまるで自分が「神」のようだなと感じた。かりんとうも珈琲も、まるでお供え物のようで、献上物のようではないかと思えてきたのだった。

自分が神になるとは、自分が一番大きな存在になるということ。自分が一番大きな存在になれば、自分を喜ばすことが一番大切なこととなる。自分が神になることの是非はひとまず置いておき、この感覚は無信仰な現代人には当たり前すぎて自覚されることはほとんどないと思う。

 

かさじぞうに登場するおじいさんの話が心に残ったのは、自分よりも大きな存在としてお地蔵さんを認めているおじいさんの質素な優しさに感動したからだろう。自分が雪に降られることよりも、おばあさんと一緒に餅を食べることよりも、お地蔵さんの寒そうな姿を憐れんだ。

神とは何も、必ずしも宗教的なものではない。自分の命よりも大切なもののことを言う。自分の命が一番大きくなれば、おじいさんのような振る舞いはできない。大きくなった自分を傲慢といい、自分を小さいものとして生きることを謙虚というのだと思う。

 

今日では自分を大事にすることが大事であると語られ、自分を満たすために美味しいものを食べることの卑しさという感覚も薄れた。天皇という神を失った日本の時代背景もあるだろう。

なぜ人と繋がりを感じられないか。それは、自分の命が一番大切となった人間同士の交流が、神と神が衝突するようなものだからではないだろうか。「お互いを尊重」などと表面上は取り繕うことができても、自分の絶対性だけは頑固として死守しようとする。自分が神となった今は、一人一人が殻にこもっているような状態なんだと思う。

かさじぞうのおじいさんの行いに、おばあさんは文句ひとつ言わないどころか笑顔で行いを褒め称えた。おじいさんとおばあさんの間に、いっさいの隔たりを感じないのは、自分を神とせず、日本古来の大和魂のもとに小さく生きているからではないか。

 

神のために生きることがない世界は水平となった。その中で人々は愛を必死に探求する。フロムがいうように、愛を「愛する問題」ではなく「愛される問題」として考えられるようになったのは、神である自分は愛を受け取って当然だという傲慢さからかもしれない。

 

自分はどうしたら小さくなるのだろう。

キリストに触れてみようと新約聖書を読んでも、科学の時代に生きる私は人間が死から復活することを心から信じることができない。しかし日本人の神について考えれば、かつてはそれが天皇であり、また武士道の精神だったと思う。

自分が感動した哲学を貫く魂と出会い、そのためなら死ねると思うほど惚れこむことは、時代を超える大きな魂を神として自己に受け入れるということになるんじゃないかな。

表面的な技術をどれだけ駆使しても、自分を神の座から引き下ろさないかぎりは、人間として繋がる体験はできない。

道は果てしない。

 

精神修養 #58 (2h/124h)

魂の観点から世界を見ると、見え方が途端に変わってしまう。鏡に映る自分が、自分のすべてだという認識が崩れ、あくまで現世を生きる肉体に過ぎないのだと知る。この肉体に宿り、この肉体を通して世界を体験してきた。物質主義の悲しさは、肉体との交流はあっても、魂の交流がないということだろう。もっとも私自身、その魂の交流の体験に憧れる求道者にすぎないのだけれど。

 

[夕の瞑想]

1時間何が何でも絶対に動かないという堅い意志がなければ、いい修行にならない。

瞑想中、ふと生じた考えを書き留めたくなることが頻繁にあるが、もしここで瞑想を中断すれば、今後も同じ大きさの肉体エネルギーに対峙した時、必ず屈服する。例外を設けてはいけない。1つの例外がほころびとなって、瞑想全体の価値を徐々に崩壊させる。どんなことが身体の内に起きても、何が何でも動かないという堅い意志が必要。

 

宿命について受け入れる感覚を得た。教員を辞めてからは、東南アジアを放浪したり、極寒の地で1年間テント暮らしをしたり、今にも崩れそうな精神状態の中を生きてきたが、そんなこともまた宿命だったのだと受け入れる感覚があった。

その実感は、この宿命の上に立ち、これから待ち受ける運命を生き抜いていこうと、1つ腹が据わったような感覚を得たからだった。宿命の上に立たなければ、運命をいくら考えても、生きることはできないということの意味が、初めて分かった気がする。

「あの時は良かったな」と過去を嘆く時間を度々過ごしてきたが、それはずっと宿命として受け入れられていなかったからなのだと知った。

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