不幸だけを手放して幸せだけを自分のものにしようなど虫がよすぎる[168/1000]

幸せにとどまらず、不幸を迎えに行こう。不幸にとどまらず、幸せを迎えに行こう。幸せも不幸も自分のものではないのに、自分のものにしようとするからおかしくなるのだ。

波は自然にうねらせておけばいい。波がうねる分だけ、命は燃焼していく。

 

 

幸せに生きることこそ人生の目的であるかのような風潮に生きている。しかし目指すべきは、幸せよりも仕合せだ。現世的な肉体(心身)を満たすことの価値は、この風潮下で揺るぎない地位を築いている。しかし我々人間、その次元を目指していいものだろうか。

 

幸せが絶対となった、幸せな人間は、不幸な人間を幸せにしたいという。悪意はない。

しかし実際は、不幸な人間を、自分の幸せに都合よく利用しているにすぎないように感じる。当の本人はそれを真っ向から否定する。しかし、もし本心から不幸な人間の幸せを願っているなら、どうして貧しい人に財産を分け与えないのか。どうして自分は華やかに着飾り、立派な場所に住み、美食を堪能するのか。

病人を治す医者も、本当に病人が一人もいなくなれば、お金を稼げなくなってしまう。

 

自分が神となった人間には、何をするにも大前提として自分の命がある。他人の幸せを願っても、自分の幸せを犠牲にすることはできないのが、信仰を失った現代人の宿命に思う。そこで生まれたのがwin winという言葉だった。お互い犠牲になることなく、一緒に幸せになろうという。しかしこれも肥大化した自分にとっての都合のいい概念でしかない。皆で幸せになろうと言えば聞こえはいいが、勝者は敗者なしには存在しえない。幸せも不幸もエネルギーである以上、波のうねりが存在する。

仮に自分のまわりの人間が幸せになったとしても、そのしわ寄せは自分のまわり以外の人間に降りかかる。それを聞いて、自分のまわりだけ幸せだったらいいなどと開き直るようであれば、もうそんなものは愛でもなんでもない。

 

 

幸せも不幸も、自分のものにしないことが、宇宙の法にかなっているように思う。そもそも幸せも不幸も、宇宙のエネルギーであり自分のものではないのだ。不幸だけを手放して、幸せだけを自分のものにしようなど虫がよすぎる。幸せを永遠に自分のものにしようとする人間が増えるほど、エネルギー奪い合いが起き、波のうねりはいびつとなる。

宇宙のものは宇宙に還していくことが自然だ。幸せにとどまらず不幸を迎えに行き、不幸にとどまらず幸せを迎えに行く。この繰り返しの中に波のうねりが生まれ命は燃焼していくのだと思う。

 

幸せは透明感がないが、仕合せには透明感がある。

いつも笑わなくていい。笑えなくてもいい。その代わり、力強い澄んだ目で遠くを見つめていよう。天を見上げていよう。

 

精神修養 #78 (2h/164h)

瞑想中、考え事に囚われるとき、海底に引きずり込まれるような感覚がある。教員のときは24時間、仕事のことを考えて、窒息している感覚があった。終いには溺れた。

いつも水面から顔を出して、空気を吸わなくてもいいと思う。葉隠のいう「本気にては大業ならず。気違いになりて死狂いするまでなり」の”気違いになる”とは、窒息死しそうになってもひたすら潜り続け、もがき続けるような状態を指しているようにも思うから。

 

[夕の瞑想]

仕事を終えて、何年も味わっていなかった幸せの感覚に身体が満ちている。不幸はナイフのように冷たくて鋭いが、幸せは温かくて滑らかだ。

しかし、幸せだろうと不幸だろうと問題ではない。幸せは心地良いが、所詮は不幸と同じエネルギーの波である。波のうねりが上を向くか下を向くか、ある一点に留まろうとすることは現世の感覚に固執しすぎていると言える。

目指す一点は、幸せではなく、仕合せだ。仕え合わさる純粋な一点において、命を燃やすことに、本当の価値があると思う。

束の間の幸せを味わえば、また不幸がやってくるだろう。荒波を覚悟してただ前に進んで行け。

 

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