純粋であることの証明は、俗に汚れなければ得られない。綺麗すぎる純粋さは脆い[169/1000]

山の修行は過酷であるが、日常の中で修行を貫き通すことも等しく大変だ。

街の喧騒から離れ、汚れないように純粋を貫こうとするが、汚れの中でも純粋でいられることのほうがずっと難しいことだろう。

 

毎日瞑想をする私は、間違いなくブッタの影響を受けているが、浮世離れに生きることに価値のすべてを見出しているかと言えば、そうだと言い切れない。

音楽も、本も、映画も、流行りものはあまり好かず、古典的なものばかり手を付けてしまうが、この時代に肉体を授かって生きる人間である以上、いま地上にあるものにも触らなければ、浮足立つような感覚をおぼえ、理想論ばかり並べたような、フワフワとした生き心地しか得られないように思う。

 

数カ月前、東京で友人にシーシャバーに連れて行ってもらったとき初めての体験に感動しながら、何とも生きた心地がした。煙草を吸わない私にとっては、自分が汚れる新鮮な感覚であった。ステーキを立ち食いすることの新鮮な衝撃が社会に広がっていた6,7年前も、肉の塊とガツガツ闘うような俗世の体験に感動していた。時代の上に立っている感覚に、世界が輝いて見えた。

街の喧騒を好まない私は、友人がいなければ自分から東京に行くことはないだろうが、東京に行けばなんだかんだいつも、地に足がつく感覚を得ていた。それらの体験はこうして記憶に深く刻まれ続けている。

 

肉体至上主義のもと、俗に浸り続ければ、快楽の虜になるかもしれない。40歳まで酒に溺れて生きたことを、悔いながら生きる男性に会ったことがある。その男性は農業に情熱を持っていて自分で畑を開墾しようとしていた。シェフとして長く働き、料理の腕もかなり達者であった。(彼の作った唐揚げほど美味いものはなかった。)何も悔いることなく立派に生きているように見えても、快楽に浸り続ければ罪悪感が残ると彼はいう。罪悪感を誤魔化す形で、酒に浸り続けて罪悪感は増幅した。

正気に戻った頃には、手の付けられなくなった罪悪感だけがある。この罪悪感が自分を蝕む感覚だけは、誤魔化すことができない。これは私自身、引きこもり鬱が慢性化した状態に似ていた。

 

幸せよりも仕合せに価値を感じる。純粋な一点を目指すことは変わらないが、俗を生のすべてから除外することも正しいとは思えない。浮世離れすれば、風のように空を飛び、宙をスイスイと進んでいく感覚があるが、やはりそれだけでは、何とも味気なく、虚しく感じてしまう。綺麗すぎてしまう。

魂の領域と肉体の領域の両方を燃やしたい。

 

これは既に傲慢であるかもしれない。しかし天が一律に否定しない所を見ると、あながち間違っているともいえない。

自分の魂を試したい。本当に純粋であることの証明は、汚れの中を生きてみないと得ることができない。

 

綺麗な場所だけで生まれた純粋さは脆い。堅固な純粋さは、俗に汚れながら出来上がっていくのだと思う。

 

精神修養 #79 (2h/166h)

・森のイスキアの佐藤初女さんは透明感のあるお人柄だったと会う人は口を揃えて言っていた。彼女はクリスチャンで、日々の慣習を祈るように生きていた。

・道徳家になることと、法に生きることは似ているようで違うように思う。道徳は時代によって変わるが、宇宙の法は変わらない。時代の道徳に惑わされると、宇宙の法が見えなくなることもある。

・幸せに留まらず、不幸を迎えにいこう。不幸に留まらず、幸せを迎えにいこう。波のうねる分だけ、命は燃焼していく。

 

[夕の瞑想]

いい瞑想ができたと感じるときは、透明になる感覚がある。身体に染みついていた汚れが、お湯によって溶け出していくように、あらゆる感覚が身体から消え去る。

自我には膨張作用と重力が働く。重力は言い換えれば、自分のものにしようとする力だといえる。食事を始めとして、日中のあらゆる摂取行動は、重力の働きだと言える。考えることも、感じていることも、無意識のうちに自分の中心に引き寄せ、自分のものにしようとしている。

痛みも、思考も、本来はすべては宇宙のものである。この感覚を思い出すことが瞑想の1つの到達点。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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