虚無について②[337/1000]

毎日、昼の鐘が鳴る頃、玄米を炊く。腹が減っていなくとも炊く。そして、腹が減っていなくても食う。すべては時間だからであり、安らぎのためであり、愉しむためである。

飽食の現代、飯を食うことは生きる手段ではなく、娯楽となった。生存のためにどれだけの食料が必要なのか、自分でも分かっていない。私自身、長いこと一日一食でやってるが、これで十分と感じるどころか、腹が減らない日すらある。世の中には、不食といって、ご飯を食べず、青汁一杯で元気に生きている人もいる。にわかに信じがたいが、自分が生きるに必要な分量というものを真剣に考えたとき、実はほんの十分の一だったなんてこともあるだろう。

 

あなたは、こんな単純な人間の生存の条件にはっきり直面し、一たびパンだけで生きうるということを知ってしまった時の人間の絶望について、考えてみたことがありますか?それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だろうと思う。

(中略)

彼はおそろしい絶望に襲われたが、これは決して自殺によっては解決されない絶望だった。何故なら、これは普通の自殺の人間となるような、生きているということへの絶望ではなく、生きていること自体の絶望なのであるから、絶望がますます彼を生かすからだ。

三島由紀夫, 「美しい星」

 

パンだけで生きうることを知ったときの絶望を味わう人はきっと少なくないだろう。安直な私はこの絶望から逃れるために断食という方法をとるが、本当は量の問題ではないことを心では知っている。理想を言えば、魂の活動に夢中になった結果、腹が減ったことにも気づかず、行き倒れになるくらい、肉体を置いてきぼりにしたいと思う。しかし、そんなことは「月と六ペンス」のストリックランドのように、魂に憑りつかれた狂人でなければできるはずがない。地上の人間であるかぎりは、生存のために食べなければならないし、そうでなくとも食が娯楽と化した現代は、隙間があれば食べることによって虚無を埋めようとする。

結局、断食の働きといえば、正気である己の卑しさを恥じ、食を断つことの苦痛によって、自分がせめてパンだけで生きていないと納得したいだけかもしれない。断食をしたとしても、地上のパンに生きる人間である自覚は弱まるばかりか、むしろ食べることばかり考えてしまう。パンだけで生きうることを知った絶望に対して何の対処もできていないばかりか、むしろ食べることに囚われつづけるのだ。

「月と六ペンス」を読み返すたびに、ストリックランドの魂に惹かれていく。ストリックランドは、食べることどころか、仕事も家族も捨てた。情熱のためにある夫婦の人生を滅茶苦茶にもした。地上のあらゆるものを破壊することも厭わない、怖ろしいが崇高な魂に導かれるままに絵を描いた。あまりにも狂っているし、かかわった人物は不幸に巻き込まれていったが、そこに虚無はなかっただろう。

 

生きていることへの絶望ではなく、生きていること自体が絶望という言葉に感動した。こんな言葉、本当は胸に響いてほしくないのだけれど、事実、私は虚無に長いことさいなまれており、そもそもこの1000日投稿も、虚無に対抗するために始められたものだ。そういう意味で、虚無の問題をここで扱うことは個人的に因縁を感じるし、1000日に到達することが叶うなら、その時はこの問題に決着をつけ、すべての虚無を燃やし尽くせていたらと願うのだ。

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