元気も、喜びも、幸せも、全部ちゃんとあるんだよ[71/1000]

生きていてよかった。青森まで来てよかった。

毎日投稿の掟は破ってしまうが、この新鮮な気持ちを、新鮮なうちに言葉に残したいから、今日このまま言葉に残そうと思う。

 

青森市にいる。1年以上、お手紙のやりとりをさせていただいていたMさんにお会いした。

Mさんから初めてお手紙をいただいたのは、私がオーストラリアを横断した後、鬱になって引きこもっていた時だった。

 

1年近く、何もできないまま家に引きこもり、「もう俺はダメだ」と人生に絶望していた時に、「あなたは大丈夫」とお手紙をもらえたことに、すごく勇気をもらった。

私のブログを読んでくださっていたMさんは、苦しいときに、私の言葉に救われたことがあるという。

 

自分の言葉で誰かを救うことができたと知ったとき、鬱で死にたくなっている私は、自分に対して「お前は生きてもいい」と赦しを与えることができた。

本当は、生きる赦しなんていらないんだけれど、人は元気をなくして、極限まで自分を卑下してしまうと、無条件に生きてもいいと思えなくなる。

 

そんな状態にあった私は、彼女の言葉に救われて、生きる勇気をもらった。それから定期的にお手紙を交わすようになった。

そんなMさんに、ついに今日お会いした。

 

Mさんの提案で、青森の奥入瀬(おいらせ)渓流を歩いた。

近くの湖を水源とするこの渓流は、水量が豊かで勢いがあって、力のある場所だった。

 

しばらく散歩をした後、Mさんが「いまいち知弥さんと繋がっている感覚がない」といった。この言葉で、時間の質はいっきに変わった。

彼女いわく、ずっとブログやyoutubeで見ていた人物が目の前にいるということは、とても夢のようだという。しかし、このまま、夢のように過ごしていたら、明日になったら夢のまま、ぼんやりとしたものしか残らない、すぐに消えてしまうような気がする、ということだった。

 

私はその感覚に共感していた。私自身も、1年以上、お手紙でやり取りをしていたMさんとお会いする時間は、どこか現実味がなく、目の前にあるけど、目の前にないような、フワフワした感覚をおぼえていた。

その違和感を、素直に伝えてくださったMさんに、私は猛烈に感謝した。

 

私は「ブログやyoutubeの人間としてではなく、今ここ、目の前に、ただ1人、そのまま人間がいるという感覚でみてはどうか」と提案したが、そんな提案がなくとも、Mさんが感じたことを正直に伝えてくださった瞬間から、ここに、リアルな時間が流れ始めたのが分かった。

Mさんは、所々、笑う必要のないところでも、笑うような素振りを見せていたが、正直に感じたことを伝えてくださったときは、真剣な表情で、笑わずに、目を見て、真っすぐ伝えてくれた。

 

私はそれがとても嬉しくて、Mさんの目を見て、感じたそのままの気持ちを、そのまま伝えた。

ここからは、フワフワした夢のような時間ではなく、手で触ることのできる、現実の時間が流れ始めた。現実の時間はよかった。今ここで心にちゃんと刻まれる。まるで、ほっぺたをつねられたように、感触があるから、地に足がついて、安心できる。時間にいい意味で重みが加わった。

 

私がMさんとお会いして受けた印象は、暮らしを愛され、大切にされる方だというものだった。

渓流を散歩した後、近くの穴場スポットで、Mさんが作ってきてくださったお弁当をいただいた。

 

焼き鮭と豚肉の生姜焼き、出汁のきいた卵焼きと、ミョウガとナスとみそ炒め、小松菜とシーチキンの胡麻和え、それからトマトと、梅のおにぎりという、彩り豊かで優しいお弁当だった。

Mさんに「これ作るの大変だったでしょう」とお話を聞いていると、朝3時に起きて、準備をしてくださったという。

 

前日もお仕事で、身体も疲れていただろうことを想像すると、手間を惜しまず、丁寧につくってくださったことが、本当に温かく感じて、私は食べ終わった後も、お弁当箱をずっと両手で握っていた。

味は言うまでもなく、美味しかったが、それ以上に、心が温かくなった。

 

それから、手作りのプレゼントもいただいた。私が原付生活をしていたとき、「とむ旅」と書かれた看板を原付の後ろに背負っていたが、今の軽バンにも看板があった方がいいだろうということで、手作りの看板をつくってくださった。

いただいた看板を早速、車に飾った。

 

無事に取り付けれたとき、私は感極まって、涙が出そうになった。

嬉しくて嬉しくて、それからは何度も看板を見ては、温かい気持ちになった。

 

旅の対義語は、暮らしだと思っている。長いこと旅をしている私は、暮らしを欲している。

暮らしには、温かさがほしい。Mさんを見ていると、暮らしを愛することがどういうことなのか、よく分かったような気がする。

 

Mさんは、自然の中で自給自足の暮らしがしたいと言った。私はMさんが自給自足の生活をする様子を、近くで見たいと思った。

Mさんの暮らしは、きっと温かく、愛に満ちたものになると確信した。

 

温かい暮らしは、人を温める。人は温まると、元気になる。

私は今日という時間で、とても温かくなった。心の底から、生きていてよかったと思った。

 

 

心残りがあることと、名残惜しさがあることは違う。

帰り際、「心残りはないが、名残惜しさはある」と感じ、それをMさんに伝えた。

 

やり残したことや、伝え残したことはない。

しかし、別れが惜しくてたまらない。もっと一緒にいたいが、別れのときはくる。もっと話したいが、時間はかぎられている。

それが、とても名残惜しい。

 

心残りは後悔に繋がるが、名残惜しさは希望になる。

またいつか生きて会えるその日を、希望として、胸に膨らませて、前を見て進める。

 

生きていてよかったと思えた。いい出会いをしたときは、そんな風に命まるごと肯定される。

ここ最近、ずっと元気がなかった私だったが、もうすっかり元気になった。

 

また、そのうち元気じゃなくなることもきっとあるだろう。しかしそれでも、その先には、元気が待ってる。

さらにその先には、また元気じゃなくなるときもあるだろうけど、でもまたその先には、次の元気がある。

 

だから、前に進みつづける。元気じゃないからって立ち止まったら、その先にある元気には出会えない。

幸せじゃないからって立ち止まったら、その先にある幸せには出会えない。

 

すべてはよくなると信じて進もう。動けるなら動いて、人に会おう。真正面から、ちゃんと相手の目を見て話そう。

希望はある。元気も、喜びも、幸せも、全部ちゃんとある。世界はちゃんと美しい。

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