本心に即した行いを増やせば、誰でも必ず幸せになる。それができるのが人間である。[224/1000]

本心にもとる行いをするとき、うすうす悪いと分かっているから卑屈になる。これが習慣になっていれば、毎日自分の心を貶めているようなものだから、生きる勇気をなくしてしまうのは無理もない話である。しかし考え方を変えれば、本心にもとる行いをやめて、本心が良いと思える行いだけを生活に取り入れれば、生活は勇気で満ち溢れ自負心が芽生えてくるということである。人間にはその力があるというのだから、これは大きな希望である。

 

引きこもり鬱だった時、これを直感していた。当時の習慣は、ソファで横になって、スマホでyoutubeを観たりやゲームをするような現実逃避が中心であった。自分でもこれではいけないと感じていて、早起き、食事、運動を心掛けていたが、トータルで見れば差引マイナスであった。本心にもとる行いをやめないかぎり、元気になることはないと分かっていながらも、それを制止する元気がないのだから、もはや”詰み”のような状態だった。外から何かきっかけが起きないかぎり、現状は打破されないと諦めていて、地球に隕石が落ちて世界がめちゃくちゃにならなければ立ち直れないと、本気で思っていた。

 

そんな時分に、友人から連絡をもらって、長野にキャンプに行った。何をするにも勇気をなくしていた私であったが、友人に軽バンを改造して暮らしながら日本を巡ることのアイデアを話すと、「おお、面白そうじゃん!やってみれば!」と背中を押してもらった。そうして、現状を打破するために生まれたのが軽バンの暮らしだった。いつも前向きな言葉をくれる彼には大きな借りを作りっぱなしである。

 

本心にもとる行動は、快適な家と結びついていたので、家にいては状態が良くならないことを直感していた。生活から本心にもとる行動を減らし、本心に即した行動を生活の中心に固めていくには、まず家から抜け出すことだった。甘いケーキを食べないと決めても、目の前にあれば食べてしまうのが人間である。スマホの通知をつい確認してしまうのが人間である。

 

軽バンには、当時はじめた電子ピアノと本と、最低限の生活用品だけを乗せた。スマホは置いていきたかったが、日本を巡るとなると、どうしてもスマホなしでいくには心許なく、仕方なく持っていくことにした。

 

こうして外の世界に飛び出すことができた。荒療法ではあった。心を治療すると言うよりは、環境を変えて心を適応させるというものだった。ただ、根本的に変わらないものがあったのか、結局また、西日本をぐるっと巡った後、実家に戻ってくると1年近く引きこもり鬱にになってしまったわけだけれども。

 

今になっても心のすべてを理解しているわけではない。しかし確実に言えることは、本心にもとる行いは、自分から勇気を奪い、本心に即した行動は、自分に勇気を授けるということである。そして自分に勇気を授けられる人間だけが、他人にも勇気を授けられるのだと思う。本心に即した行いを増やしていけば、誰でも必ず幸せになる、それができるのが人間である。そう信じております。

 

精神修養 #134 (2h/276h)

身になるとは自分で身になったと自覚されることのない状態をいう。本当に謙虚な人は自分のことを謙虚だと自覚せず、美しい人は自分のことを美しいとも自覚しない。自覚されないのだから、自分のしていることが、正しいことなのか分からない。だから本心を信じてひたすらやり続けるしかない。日々の修養をひたすら続けて、毎日積極的ないい言葉を使うことだ。

 

心を池として表現するのなら、夕の瞑想は、池の水が透明になったような感じであった。スマホを使わない生活のおかげだろうか。それとも、たまたまだろうか。

心に生じる思考を波紋に例えると、波紋は生まれるが、透明の水に生まれる波紋は澄み切っていて嫌な感じがしない。そのお陰か、波紋が生じても意識は明瞭で常に呼吸と共にあるような状態だった。

生活の根底を流れるものは、心の透明度と相関があるように思う。根底にあるのは、喧騒か、それとも静寂か。恐れか、それとも勇気か。

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