悲しみや怒りさえも力の源にして。現世を突っ切って生きていく[225/1000]

「現世をつんざいて生きなければならない。憧れに向かって、この世を突っ切るのだ。」 執行草舟

この命をもって、隼のように、現世を突っ切っていく。現世を突っ切ることができるのは魂だけで、己が肉体となったとき、魂もろとも現世に閉じ込められる。現世に閉じ込められると、お金や贅沢品のような現世的な価値がすべてとなって、比較の世界を生きることを強いられる。どこまでいっても、現世のものは、現世のもの。あの世にもっていけるものがあるとしたら何だろう。

 

人は一人で生きていくには弱い生き物だと改めて思う。自分のために生きろという人間もいるが、自分のために生きることで、自分の肉体が強調されるなら、他者との分離感も色濃くなるばかりではないか。

最近、何度も体験する。勇気がくじかれそうになるとき、これまでに出会った人の顔が思い出されると、すべてがどうってことないと思える。あなたに顔向けできるように。あなたに認められるように。あなたに負けないように。あなたに恩を返せるように。あなたに笑ってもらえるように。そう思うと、全身はみるみる勇気で満たされる。

 

そんな出会いはないと言う人もいるかもしれないが、それは間違いである。誰しも傷ついた経験は一度はあるはず。傷ついたという経験でさえ、傷つけられたままで終わるのか、「くそうこの野郎、今に見てろよ」とエネルギーに転換するのかで、傷ついた出会いは、自分を奮い立たせる出会いとなる。怒りさえも、恐れとするか、勇気とするかは、心の持ち方次第である。

ここに天風先生の、絶対積極の精神を思い出す。言葉を積極的にするとは、言えば簡単なことであるが、これを実践するのは本気にならなきゃいけない。

 

現世を突っ切りながら、偶然に同じ時代を生きる人たちと力を合わせて生きている。そこで得る力を現世に浪費することなく、国の為、世の為、愛する人の為に用いたい。

この身を奉げて生きたい。己が為に生きるには虚しくて。君を想うも分からない。地に堕ちたこの魂は、もう一度春の風となり、黄色の大地を駆け抜けたい。そんな気持ちの池田山の朝。

 

精神修養 #135 (2h/278h)

クンバハカの状態だと、みぞおちを打たれても、身体は衝撃を受けないらしい。それくらい強い状態がクンバハカなのだけれど、今朝はとても寒く、眠く、どうも瞑想にならないところで、下丹田に気を充足させて肛門を締めてクンバハカの状態を試みると、寒さや眠さといった衝撃も躱すことができることを知った。散らばっていたエネルギーがまとまったような感覚があって、あれほど瞑想にならなかったのに、静かな呼吸を観察できるくらいにまでなるのだから、人体の仕組みは本当に不思議だ。

 

あなたに顔向けできるように。あなたに認められるように。あなたに負けないように。あなたに恩を返せるように。あなたに笑ってもらえるように。へこたれそうになっても、怖気づきそうになっても、恩人の顔が思い浮かぶと、こんなことどうってことないと思える。

人のために生きることを想像するときのほうが、頑張ろうと思えるのは、人間が自分のために生きるように設計されているのではなく、人のために生きるために設計されているからではないだろうか。

恩返しが人生になるとは、そういうことなんだろうか。

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