祖先が死んでも守りたかったのが今日を生きる我々である。[226/1000]

自分のアイデンティティを問うのは人間ならではである。我々は何もない所からポツリと生まれたわけではなく、先祖が時代を死に物狂いで生き、幾度も命が繋がった末に、現代を生きる我々がいる。個の命は独立しているように見えても、歴史を見れば一つに繋がっている。

葉隠や武士道といった日本文化を学びながらも、日本の歴史については学校で習った以来、まともに勉強していないなと思って、百田尚樹著「日本国紀」を読むことにした。百田尚樹著といえば、「永遠のゼロ」が有名であるが、私が最初に読んだのは「カエルの楽園」だった。カエルの楽園は、現代日本と安全保障をテーマにした寓話で、初めて読んだときはかなりショッキングだった。私は戦後教育を受けた一人であったので、何が本当で何が嘘なのか分からなくなる。しかし、冷静に自分の頭で考えてみると、筋が通っていることと、これって変だよねということは少しずつ見えてくる。

 

百田尚樹著「日本国紀」には、縄文時代から現代までの通史が書かれている。線引きした箇所が膨大なので、個人的に心に残っている一部を紹介。

初期の武士集団というのは現代でいうならヤクザのような存在であった。(中略)「親子子分の関係が強固」「法よりも力とスジにものを言わせる」「縄張り意識が強い」などだ。もっとも、時代が下って権力を持つようになると、彼らの中に独特の武士道というものが生まれていく。

p72

 

古の日本人は、非業の死を遂げた人は怨霊となって世の中や人に祟ると信じて非常に恐れた。疫病が流行ったり、天災が続いたりすると、そうした祟りのせいだと考え、怨霊を鎮めるための祭りを行ったり、神社を作ったりした。(中略)

明治維新以後、西洋風の合理主義が入り込んだことで、私たち現代人は「祟り」や「怨霊」というものを非科学的なものとして排除するようになったが、日本の歴史を見る際には、かつての日本人がそうしたものを恐れていたということを忘れてはならない。

p75

 

江戸時代の法律である「公事方御定書」には武士が町人や農民から侮辱を受けた時は、斬り殺しても処罰されないとは書かれているが、(これを「切捨御免」という)、実際には町人を斬り殺して処罰を免れる例は少なく、多くの場合、切った武士も切腹を命じられている。刀を抜いただけでも大ごとになったため、多くの武士が刀を抜く機会など一生に一度もなかったと言われる。ちなみに江戸城内では、刀を抜いただけでも切腹であった。

p175

 

死に臨んで和歌などを詠むという「辞世」は、日本独特の文化の一つで、日本史に残る有名人の多くが名歌を詠んでいる。明治に入ってその風習は急速に廃れ、大東亜戦争後はほとんどなくなった。(中略)

十返舎一九の辞世は、「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙と共に 灰左様なら」というものだ。一九は「遺体は洗わずに火葬にしてくれ」と遺言し、友人たちが火葬にしたところ、着物の間に仕込んでいた花火が炸裂して、葬儀の参列者を驚かせたという逸話が残っている。

p210

 

感臨丸にはサンフランシスコの上流階級の人々が見学に来たが、この時、夫人たちも艦内に入ろうとした。幕府の軍艦は女人禁制であり、木村は乗船を断わった。すると夫人たちは怒り、今度は日本人を欺こうと男装してやってきて、まんまと乗船して艦内を見学した。彼女らが船を降りようとした時、木村はお土産として紙包みを渡した。彼女らが船から降りて紙包みを開けると、そこには美しい簪(かんざし)が入っていた。この粋なはからいに、夫人たちが感激したのはいうまでもないが、サンフランシスコ市民も喝采を送った。

p245

 

薄暗い十五畳ほどの地下壕で、十一人の男達が号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言った。

「本土決戦を行なえば、日本民族は滅びてしまうのではないか。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来ようか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人たちが将来再び立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。そのためなら、自分はどうなっても構わない。

p405

 

死ぬ前に、着物に花火を仕込んでおいて、火葬と共に友人を驚かそうなんて、なんとも洒落た話である。歌人にとっては死さえも諸行無常のものであったことを思うと、死生観というものがちゃんとあったことが想像できる。

全体を通して、日本人の強さと美しさに感動しながらも、カエルの楽園につづき、戦後の日本についてはショッキングな面が大きかった。終戦が決断されたとき、昭和天皇が語られた言葉を聞くと、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

 

“Give me liberty, or give me death” アメリカ独立戦争の指導者パトリック=ヘンリーの言葉、「自由かしからずんば死か」は有名である。この言葉は、人間の霊性を象徴しているが、この精神はかつての日本人にも宿っていたのだろう。死んでも手に入れたいものがある。死んでも守りたいものがある。剣で斬られれば苦しむし、銃弾が肺を貫けば呼吸だってやっとのことだ。今日を生きる我々と人体の仕組みは変わらない。それでも立ち向かわなければ、大切な国や家族を守れなかった。だから、死に代えてでも進むことを選んだ。失敗すれば、責任を取る形で、自死を選んだ。武士が切腹をしたように、死ぬ覚悟でやっていた。この覚悟に生きるから、強さと誇りが生まれていた。いざとなればこの身第一に逃げ出そうなどと考えていれば、いつまでも誇れるような生き方はできない。

 

帯に「私たちは何者なのか」とある。自分を知ることは、歴史を知らないことにはあり得ないと今は思うが、そこを避けていたことはとても恥ずかしい。自由主義のもと、ポツリと存在する個人として、人生を捉える風潮があるけれど、自分と宇宙の二者間においての哲学は、あたかも自分がどこの国にも属さない、先祖からも切り離された孤立した存在のようで、やはり寂しいものがある。読了して熱くなったものの、ショックが大きいこともあってまだ消化できない。少し時間を置いて、また改めて言葉にする。

 

精神修養 #136 (2h/280h)

瞑想にクンバハカを取り入れるようになってしばらく経った。呼吸に雑念がわくときは、呼吸に合わせて肛門を締めると、グッと集中できる。寒さに震えるときや、睡魔で意識が飛びそうになるときも、肛門を締め、下丹田に気を集めると、意識は明瞭さを取り戻す。

天風先生は、肛門を締める人間は眼光が宿る。肛門が緩んでいる人間から猛獣はカブッといくと話したくらいである。肛門を締めるよう心掛けた初日は、肛門筋が鍛えられていないこともあってプルプルと震えていたが、いつしかそんなこともなくなった。

日常において歩くときや走るときも、肛門を締めて、下丹田に気を集めると、身体の重心が安定して、体幹がまっすぐ伸びる。座禅を組む時も同じで背筋がまっすぐ伸びて姿勢が安定する。クンバハカの状態でみぞおちを打たれても、動じないというのは本当に不思議である。人間が強くあれる状態というのは確かに存在しているのだろう。

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