何もないときにすべてがある。すべてを失ってすべてを得る。[418/1000]

すべてを失うことで、すべてを得る。いちばんよろしくないのは、少しだけもっている状態である。少しを失うことが怖ろしくて、前にも後ろにもすすめなくなる。日々、持ち金が底を尽きようとする私は、こう考えることで精神衛生を保とうとする。もっとも金のない状態こそ、人生がもっとも輝く瞬間だ。そう思える日はくるはずである。

 

私は貧しい旅をしてきた経験が少なからずあるので、これが真理であると半ば確信している。東南アジアのバックパッカーで、もっとも心に刻まれているのは、金も食料もなく飢えそうなときに、現地のおばちゃんに恵んでもらった、おむすびのような料理だった。国境を越えるときにバスが故障して、何時間も立ち往生し、次の国の通貨もなければ、手持ちの食料もなく、先の見えないなか、黙って飢えに耐えるしかない状態であった。同じバスに乗っていたおばちゃんが、憐れむように恵んでくれた食べ物は、旅をとおして食べたものの中でも、いちばんうまかった。おばちゃんは英語が話せなかったが、同じ波動を共有していた。なにもなかったときにすべてがあり、もっとも幸せだったのである。

 

金がなくなることにいちいち心を惑わされるのは、自分が肥大化しているからだと言える。森の近くに社長をしているご夫婦が住んでいる。防犯カメラとセキュリティをはりめぐらし、景観に似合わない”私有地立ち入り禁止”の看板がいくつも立っている。それを見ると、守るものがたくさんあって大変だなと、申し訳なくも憐れな気持ちになる。こんな穏やかな田舎町に泥棒をはたらくような悪い人間はいないと思うのだけれど、守るものが多ければ敏感にならざるをえないのであろう。

他人事ではなく、私は持ち物が少ないだけなので、無防備でいられているだけである。金がなくなることを怖れていれば、本質はちっとも変わらないのであるし、なにより少しを失うことを怖れて、立往生しているのだとしたらもっとも愚かである。

 

この際、すべて金をなくしてみようと思っている。あと数ヵ月もすれば、金は尽きる運命にある。これを機に、物や金にとらわれた心を、すべて解放できないものか。保障のない人生だということはもう自覚しているのであるし、自分の医者は自分だ、病院にかかる金がないのならそのまま死ぬまでだと本気で考えている。持ち金で買えるだけのものを買う。持ち金が許すだけのことをする。金が必要ならば働く。ローンや積み立てに縛られるのは御免だ。足軽は人をつくらずというが、失うものがなにもないゆえに強く生きられるのなら、それもまたいい気がする。私はどちらかといえば、そんなつまらない生き方に足を踏み入れてしまった人間だ。そういう運命にあるのなら、とことんつきすすんでみるのもいいかもしれない。

物質主義に飲み込まれず、憧れにもっとも近づけた瞬間こそ誇りに思える。

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