古くへと立ち返ることを正義と言えないだろうか[592/1000]

勝者の論理を正義というのではなく、古くへと立ち返ることを正義と言えないだろうか。肉体に例えるならば末梢神経と戯れることではなく、心へと立ち返ることだ。男女の交合に例えれば、心の合一となるものが前者であり、末端の感覚器官の戯れとなるのが後者だ。

堕落や退廃とは、古くの根源を失い、末梢神経が優位になりすぎることを言うのではないか。原始仏教では感覚への執着から離れようとする。中枢から諸感覚を制し拒絶することを、歴史ある叡智は語ってきた。

 

古くへと立ち返ることは、根源を目指すことである。根源を目指すとは人類の故郷を見つめることであり、魂の価値を重んじることである。現象界に投げだれたわれわれは、もとは同じ宇宙の暗黒からやってきた。根源を見つめることは、われわれ人間が一つであることを思い出す営みである。ゆえに、無私は善であり、エゴイズムが悪と言われる。

何が善で何が悪かという問題に、私は力を善とし無気力を悪としてきた。これは、こうも言えるのだ。古くへと立ち返ることが善であり、新しいものに身を沈めることが悪である。なぜならば、古くからの慣習は人間に力を与え、新しく洗練された慣習は人間の力を奪うからである。

 

こう書くと、いかにも現代の進歩を真っ向から否定する陰謀論者のようである。だがこれはあくまで、私の経験則にしたがって言葉にしているにすぎない。森で隠遁生活をしていた頃は、文明らしいものといえば、火を扱うくらいで、電気もガスも使えない素朴な生活をすごしていた。

これは何度も書いてきたことであるが、私は森の生活の3ヵ月に人生でもっとも幸福なひと時を感じていた。パソコンでキーボードを叩く代わりに、物を書くにも鉛筆とノートを使う。音楽を聴くためには、火の前に坐って目を閉じて、頭と心で再生する。私はこの時ほど、音楽を聴くという行為に身を捧げられたことはなかった。例え盲聾になろうと人間から音楽を奪うことはできないことを身をもって知った。

これが力の原理である。そして、これが古くへと立ち返る力である。感覚器官を離れ、末梢神経を介さなくなるのである。断じて末梢神経を喜ばせる文明の進歩が豊かさではないのである。

真の豊かさとは、人間が力に満ちることだ。今日という日が無気力になるのではなく、情熱と勇気と慈愛に満ちて、前に前に進もうとするのである。それを忘れちゃいけない。末梢神経に向けられた関心を、もっと根源に、根源に、向かわせて。

 

2024.2.2

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