クリスマスに教会のミサに参加して後日思うこと[190/1000]

2日経っても教会で世話になった女性のことも、教会で過ごした崇高な時間もまだ心に残り続けている。神を自分の身に宿し、神と共に生きることはどれほど心強いことなのだろう。

 

女性はキリストの肉体を意味するパンを幸せそうに口にした。この出来事を改めて振り返る。キリストを食べ、キリストとして生きることを意味したなら彼女にとって幸せであり、仕合せでもあったということになる。彼女が私に親切にしてくれたのは、彼女でありながら、キリストであったからということになる。神を身に宿して生きるとは、法と一体になって生きること。法という非日常性を、肉体を用いて実行するために、日常に持ち込むための架け橋が、聖体拝領であったように思う。

 

十字架に磔にされて死んでから3日後に復活した話を信じろと言われても、科学に染まった人間は「そんな馬鹿なことがあるか」と言う。サンタクロースは存在するといえば、何を寝ぼけてると馬鹿にする。非現実性を信じれば傷つくことも多い。しかし現実に染まった世界は、自分の非現実性すらも否定してしまう。奇跡も祈りも恋も消えて、欲望に満ちた平坦な生き方になっていくのではないか。非現実性が夢であり、恋であり、祈りであり、それを信じた先に奇跡やドラマがあるように思う。教会で出会った人間に感じた純粋さはその祝福であった。

 

法は自然のものであると西郷隆盛は言う。自然のものである法や魂は非日常的なものであり、それを肉体で実行するには非日常と日常を架け橋とする何かしらの行為が必要である。ある人は祈りで、ある人は聖体拝領で、ある人は瞑想で、ある人は奉仕活動で、ある人は神社にお参りをすることで、ある人は孤独に山を歩くことで、ある人は毎朝毎夕死ぬことかもしれない。宗教として体系化されていなくとも、愛や友情に生きる人間は非日常性を日常に流し込むための何かしらの習慣を持っているように思う。

法に生きることを望むなら、たとえ洗礼を受けるつもりがなくとも、定期的に教会のミサに参加し、一緒に祈らせてもらうのは一つの手段になり得ると思うがどうなのだろう。信じることができるか否かは能力の問題であるが、自然の法に生きることを望むか否かは意志の問題である。

 

「武士道というは死ぬことと見つけたり。」非日常性を日常に流し込むことに共通することは自分を死なせることに思う。パンを食べる時、自分が死んでキリストが生きるように、自分という日常性に置き換える必要があるんじゃないかな。楽なことでも言葉で言うほど簡単なことでもないだろうが、楽に生きたいわけじゃないんだろう。

 

精神修養 #101 (2h/210h)

葉隠武士が死身となった表情を、隆慶一郎は「死ぬことと見つけたり」でこう書いている。

杢之助は決して鋭い顔ではない。むしろ茫洋として、つかまえどころのない顔である。お勇に云わせると、もうひとつぴりっとしない、ということになるのだが、そこがまたいい。むやみに勇武を誇る気配もないが、どこかに烈しいものが感じられる。うっかりして、そこに触れたら最後、到底ただ事ではすむまい、といった感じがある。

隆慶一郎. 死ぬことと見つけたり(新潮文庫)

 

瞑想の一つの道しるべである死身となることは、怖いものがなくなるかって顔つきが勇ましくなるような印象があるが、人を委縮させるような力んだ顔をしているうちはまだ強情である証だろう。力むことも緩むもなく、ぴりっとしないが烈しいような顔つきになるかが一つの基準となる。もちろんこれも意図してなるものでもない。寒さに瞑想をしていると、無意識に負けじと目に力が入ってしまうが、死はいつも緊張を解いた先に在ることを思い出したい。

 

[夕の瞑想]

人里離れた渓流の傍での瞑想。適当な石に座り、水の流れる音と冷たい風を感じていた。

人気のない真っ暗な場所である。もし後ろから人が忍び寄ってきて、私の頭めがけて大きな岩を振り下ろすなら、私は何の抵抗もなく、そのまま血を流して倒れるだろうか。死身となるとはそういうことだろうと思いながら、一方でやはり死身となるだけではフィフティーだと再確認する。

頭をぶたれてそのまま野垂れ死ぬために死身になるのではない。恋焦がれる対象に生きるために自分を死なせる。もうフィフティーは、対象に恋焦がれることにある。後半のフィフティーがあれば、後ろから人に頭をぶたれたとしても「こんなところで死ねるか」と、すぐさま振り返って反撃に出られるだろう。

どちらが欠けても不十分である。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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