元気になれるまで、宇宙は誰もひいきせず、誰も見捨てない。[210/1000]

天には我々がつかうような言葉がありませんから、事実をもってあなた方の自覚を求めるのであります。万物の霊長たる人間に生んでやったのに、万物の霊長たる人間としての生き方をしていない。さりとて、せっかく生みつけたものを、資格がないからといって、すぐその資格を取りあげることはかわいそうだ。それで、お前の生き方には間違いがあるから、その間違いを自覚しなさい、といって病をくだされたんだ、こういう考えがいちばん確かだと私は思う。不運がまたそうなの。

中村天風

 

宇宙エネルギーは真・善・美だと、天風先生は言う。真は誠、善は愛、美は調和。

病も不運も、宇宙が調和された結果に過ぎないのだろうと思う。自然に背くような不健康な生き方をした結果、病という形で調和され、自然の法に背くような生き方をした結果、不運という形で調和される。

宇宙が公平に調和に向かおうとする中で、不調和な行いをした歪みがしわ寄せされる形で、いつも何かはおかしくなる。例えは宜しくないが、災害も同じである。海洋プレートが沈みこんで陸のプレートの歪みが限界に達すると、跳ね上がって地震は起きる。大地の血管である水脈がコンクリートの人工物にふさがれて土壌が呼吸不全になると洪水は起きる。宇宙は常に公平に調和へと向かっていて、宇宙から見れば、災害は不調和が調和されたに過ぎない。

 

病や不運は人間の不調和が調和された結果なんだろう。おかしくなるときは必ず不調和がある。だから病を与えてくださったことや、不運に感謝しろと天風先生は言う。どういうこっちゃと最初は思ったが、ああ、なるほどなぁと今は少しだけ分かった気がする。宇宙は誰もひいきしないし、誰も見捨てない。あの人は偉いから、あの人は貧しいからということはなく、公平にすべての人間が調和に向かえるよう万物を包んでいる。元気に生きられるように黙って背中を押し続けてくれている。それもずっと。まだほんのりではあるが、ここに大きな愛を感じたのだ。

 

心身に病を持つ人間や、不運に嘆く人間がいるなら、そこに不調和があることを自覚しなさいと天風先生は言われた。私も過去、心に病を患ったことがある。オーストラリア横断の旅を始めてしまった手前、無理をしながらも最後までやり切るしかなく、大きな歪みを生んだ。それが調和される形で長いこと引きこもる形となったが、今こうして再び外に出て仕事をするようになっても、不調和を正し、調和を志す気持ちがなければ同じことが繰り返されるだろう。

 

病で人が変わる話は多くある。病を負った人間は幸せだ、不運を感じる人間は幸せだ、という天風先生の言葉を受け入れるには深い自覚が必要だろうが、少なくとも大きな宇宙は我々が元気になれるよう、いつも調和できるように見守ってくれていることは確かではないだろうか。

元気になれ。元気になれ。元気になれ。言葉はないがそんな大きな感覚に包まれたなら、きっと病も不運も有難く思えてくるのだろう。

 

精神修養 #121 (2.5h/249.5h)

霊性心はベース。その上に本能心と理性心がある。だから本能心と理性心が静かになると、おのずと霊性心があらわれるものなんだと思う。霊性心には言葉がなく、ただ静寂がある。体験した静寂が本当に霊性心だったのかは分からないけど、人間に宇宙エネルギーが摩擦し、心と命が宿ることを想像してみる問い、霊性心がいちばん最初にあることを考えることが理にかなっているように思う。透明な時間も体験も、いつも霊性心がそこにある気がする。

 

[夕の瞑想]

相変わらずの凡人さである。過ぎた小さなことに後悔する理性心。そこから発せられているのは未来への恐れであった。

座禅を組み呼吸に集中し、気の分散を防ぐべく、同時にケツを締める。ケツを締め続けることはかなり困難であるが、中村天風先生は晩年、ずっとケツの穴を締めるような状態で生きていたという。身体の重心を下丹田に置くと、ケツを締め続けることも容易となる。人間の身体構造は不思議である。

肛門を締めることで気の分散は防がれ、一時間の瞑想後、恐れは完全に消失していた。瞑想は心を積極化させることでありながら、身体を積極化させることでもある。肛門を締める筋トレのようである。

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