大きな慈悲に包まれているから、全部大丈夫だ。[211/1000]

我々は自然の法に生きている。調和の世界に生きている。自然の法からは逃れることができず、オレには関係ねぇと自分勝手に生きれば制裁を食らうようになっている。宇宙は誰も見捨てることなく、ひいきすることもなく万物を調和させようとする。病も不運も、自らが生んだ歪みが調和された結果にすぎない。

確かに当事者の立場から結果だけを見れば、病も不運も苦しくて忌々しくて仕方がないが、冷静になってみよ。本当に自分には一切の非がないと言えるだろうか。病も不運も、不調和の歪みが大きな力によって正されたものであるなら、日々の何かが自然の法に背いていたということだ。「調和に生きたいなら、今のままの生き方じゃだめだよ」と宇宙から教えてもらえたと自覚し、生き方を変えるきっかけにしなさい、と中村天風先生は教えられる。

 

人間にとっては天災といえる事象も、宇宙からしてみれば歪みが調和されたに過ぎない。人間よりずっと大きい大地ですら歪みを生んで地震を起こすくらいである。なぜ宇宙エネルギーの本質が調和であるのに、不調和が起こるように設計されたのだろう。まるで初めから不調和が起こることが設計されているようではないかと考えてみたが、そもそも不調和がなければ調和の概念も消えてしまうのだった。調和だけの宇宙は調和しているとは言えず、万物が調和を体験できるように、あえて不調和が生まれるようになっているのだとしたら、なんとも宇宙とは壮大である。

 

そう思えば、人間が不調和を起こす不完全な存在であることも、そのように設計されているのだから仕方がないじゃないかと思えてくる。悲しみや怒りや恐れに屈服して、生きる大変に何もかも投げ出したくなったり、感情に振り回されて疲れ果ててしまうことも、そうなるように設計されているのだから仕方がないじゃないかと思えてくる。

 

しかし、ここで希望を捨てちゃならないのが、人間である。人間が万物の霊長と言われるのは、宇宙エネルギーの本体である心をもち、自ら不調和を自覚し、調和に向かう力があるからである。その代表的な例が、武士道に生きた侍。忠義や名誉といった自然の法に生きたために切腹して自らの命を絶った。誰かのために自分を犠牲にできるのが、心をもった人間である。生存の損得を超えて、美しさを選べるのが人間である。

 

いっさいの歪みを生まずに生きることは、宇宙の法においてはあり得ない。だから歪みが生まれることを嘆く必要は何もない。どうして私はこんなにも弱いのだろうとか、どうして私はこんなにも臆病なんだろうと嘆いても、そうなるように宇宙が設計されているのだから仕方がない。それよりも、心を常に正す方に使いたい。天風先生の言葉を借りれば、消極的な言葉で心を満たさないようにする。気持ちの悪い言葉は使わない。下手なところで自分に同情すると、消極的な言葉に心は覆い尽くされる。断固として一つも消極的な言葉を赦さないという心持で生きること。それを天風先生は教えられている。

 

万物は調和に向かう。苦手な人がいても、嫌なことがあっても、全てはちゃんと調和に向かってるから安心しよう。大きな大きな力が、すべてを調和に向けて動かしてくれている。その恐れも、怒りも、悲しみも、すべて調和するよう天の神様が感情として与えてくれるに過ぎない。大きな慈悲に包まれている。だから全部安心されたい。全部大丈夫である。

 

精神修養 #122 (2h/251.5h)

雑念、妄念が多く、気が分散していた。肩を下ろし、ケツを締め下丹田に気を充実させる。瞑想中に気が分散しがちなときは、クンバハカをする。肛門が気の出口になることを知ってからは、これをほぼ毎日のように心がけるようにしている。最初のうちは、意識を呼吸に置くのか、ケツを締めることに置くのか、下丹田に置くのか、注意の対象が多くて大変である。しかしこれも、慣れで時期に落ち着いてくるだろう。

 

[夕の瞑想]

万物は調和に向かう。苦手な人がいても、嫌なことがあっても、ちゃんと調和に向かってるから安心しようぜ。大きな大きな力が、すべてを調和に向けて動かしてくれている。その恐れも、怒りも、悲しみも、すべて調和するよう天の神様が感情として与えてくれる。大きな慈悲に包まれている。だから全部安心されたい。全部大丈夫である。

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