静かで温かくて優しくて、清冽な流れが世の中にあった[212/1000]

道具によって心と身体を磨き、先生を敬い、忠に生き、魂の教えがあった。今よりも静かで優しくて温かい世の中で、清冽な清い流れが流れていた、と95歳の彼は言った。政治が絡めば、右寄りだとか左寄りだとかいう話がすぐに持ち上がるが、魂の問題を考えるならば文化を見つめることは避けては通れない。なぜなら文化とは、魂を授かった肉体が何千年の時をかけて、その土地と民族にあったやり方で、精神活動を現象化、体系化させたものであるからだ。魂の結晶体が文化である。何度もここで取り上げている武士道や葉隠は日本文化の代表と言われる。新渡戸稲造は、日本にとってのキリスト教や仏教にあたるものが武士道であると言った。

 

文化は文字がベースにある。葉隠も万葉集も新古今和歌集も、ページをめくってみれば旧字だらけで簡単には読ませてくれない。例えば葉隠には「恋の至極は忍び恋と見立て候」という一句があるが、原文では「戀の至極は忍戀と見立て候」となる。「人間一生誠に僅かの事なり」という一句も原文では「人間一生纔の事なり」となる。漢字に加えて、現代では馴染みの薄い言い回しもあるから読むのは結構大変である。

漢字が略字となったことで日本伝統との繋がりは希薄となった。文字を失うことは文化を失うことである。文化を失うことは魂を失うことである。その追い風となったのが、西洋化の波と物質主義なんだろう。それが戦争をきっかけに人間によって行われたことだと思うと何とも傲慢で残忍である。魂は見事に分断された。

 

ここにポツンと生きているような漠然とした孤立感は、垂直性が宇宙の不本意な形で断たれた結果であろう。戦前を知らない私は、これが当たり前の状態だとずっと思ってきたが、宇宙はそんな無慈悲なものじゃなく、もっと温かいものなんだと今は思う。文化に目を向ければ、我々の先祖が、千年以上かけて積み上げてきたものがここにある。葉隠を読んでいても、万葉集を読んでいても、言葉にならない静かで温かくて優しい感覚が、いつも心の内に流れ出す。この流れが95歳の彼が言うような清冽とした流れなんじゃないかな。きっと今よりも物質的に恵まれず、垂直性の高かった時代は、この魂の温かさが世界に流れていたことを想像する。この宇宙に生まれて、今の孤立感に生きる我々は、生きることを水平的に捉えてしまうが、ついこないだまで人間はもっと美しく強く尊く正しく生きていた存在だった。

 

時代を嘆くつもりはない。いつの時代にも、時代を嘆く人間はいた。95歳のその方も、明治や大正の人間と比べられて、昭和生まれの人間を時代が嘆いていたという。そのさら前の時代の中村天風先生の言葉にも、「昔の人は…今の人は…」というものがあるくらいだ。平成の私から見れば95歳のこの方ほど、今生きている人間で、清く尊く強く正しい方はいないんじゃないかと思うくらいだった。

執行草舟氏は、人間の魂の垂直性は原始が最も高く、時代と共に右肩下がりにあり、武士道で一つの形が形成され、今が最底辺にあるという。だからベートーヴェンのような作曲家もニーチェのような哲学者ももう現れないだろうと言う。

いつも時代の不満は生まれる。令和の次の時代には、昭和後期や平成の人間は尊かったな、と言われているかもしれない。魂の価値を自覚した人間がやるしかない。千年以上かけて形となった文化の重みを想像すると、これ以上に価値のあることなんて、この宇宙には一つもないんじゃないかなと思う。

 

精神修養 #123 (2.5h/254h)

・潜在意識と実在意識。瞑想が深くなれば潜在意識を自覚できるような気もするが、厳密には潜在部分に潜んでいたものが、実在部分に浮上するだけの気もする。それが人間の認知機能の限界なのではないか。

・潜在意識に気づいていようなど無理なご注文である。実在意識にすべての注意を向けていれば、今日のところは十分である。

・実在意識だけに的が定まると、一点集中となり、かなり深く瞑想に入ることができた。これは引きつづき瞑想において心掛けたい。

・実在部分が綺麗になると静寂が訪れる。ここに新しい考えが生じると、潜在意識から浮上したもののような気がする。

・宇宙エネルギーが宿るのは、潜在意識だと天風先生は言う。

・瞑想の一つのゴールは、本能心と理性心を綺麗にし、霊性心を表面化させることだろう。

・真・善・美は自分から作るものでも演じるものでもなく、おのずと現れるものだと信じる。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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