無邪気な欲望を愛すこと[545/1000]

無邪気な欲望を愛すこと。それが欲望を卑しさから解放し、欲望を抱える人間を愛する鍵と考える。

無邪気な欲望とはなんだ。これは、素朴な欲望といえそうだ。素朴なものとはなんだ。これは、自然本来の無垢なものといえそうだ。創造主、すなわちデミウルゴスが現象界をつくった自然界からの恵み、例えば、太陽や月を眺めること、そして、自然界の動植物と戯れること。これらは素朴の中でも、純素朴なものといえるだろう。

 

だが、われわれ人間は動物と一線を画し、自然本来の純素朴さなもの以上の欲望を抱える。

われわれは、音楽を奏で、料理をし、酒を醸成した。こうした古典的なものは、純素朴の次にある、素朴な欲望である。そのなかでも、音楽でいえば、伝統楽器を用いた民族的なもの、または、あの偉大な音楽家、ベートヴェンやモーツァルトのようなクラシック音楽。食でいえば、土地に根づいた郷土料理、地元野菜を使った粗食が、代表的な素朴な享楽といえそうだ。

 

純素朴、素朴ときて、次に来る欲望、ここからは「嗜み」と言ってみよう。嗜みは古典的文化的でない、人間の欲望である。個人の趣味に属するもの、風土から解放されたもの、文化から解放され、純粋に感覚の愉しみだけを追い求めたもの、こうしたものが嗜みである。嗜みには、際限がないので、弁えや節度を失えば、奈落に落ちていく。今日、欲望が卑しきものだとされる所以は、節度を失った嗜みに、翻弄されているものではあるまいか。

 

整理をしてみよう。欲望には純素朴なもの、古典的なもの、嗜まれるべきもののように、発生順序がある。神、創造主であるデミウルゴスが人間をつくった本来に近づくほど、古くにさかのぼるものほど、素朴で無邪気な欲望と言えそうである。素朴なものほど品があり、派手な装飾で内実の空虚をごまかすものほど品がないと言える。

 

トーマスマンの「魔の山」にペーペルコルンという大人物が登場する。ペーペルコルンは、派手になりすぎた上級的な享楽(本のなかでは「上品」と言葉が使われるが、今日の享楽は品位が失われているものも多く、必ずしも上品とはいえないので、上級といってみる)は、われわれの感情のあらゆる力をもっても味わいつくすことのできない、ほとんどの人生の賜物、自然の賜物の尊厳を損なうと考えている。

つまり、素朴なものを味わいつくす前に、安逸のために、虚飾に満ちた享楽に身を委ねることは、感情を屈服させていることを意味し、これこそ堕落した欲望の正体である。同時に、これは己の人生に対して感情の力を無力化する屈辱的態度であるということだ。

 

上級快楽は、金儲けと結びつけば、その虚飾を用いて、いかに客の感覚を依存させるかを考える。言わずもがな、あの「享楽を無尽蔵に掘り出す人々のポケットに忍び込む小さな鉄シャベル」は、一つ一つの動作に快楽物質が分泌されるように、計算されている。

上級享楽に満足する一方、無力感を体験したことのある人間は、きっと少なくない。これは、この世界そのものが、純素朴に出来ているからである。この純素朴な世界に対して、感情を感ずる力が衰えたために、屈服している状態である。ペーペルコルンは、こうした世界から要求される感情の力を「人生の要求」と表現している。

われわれの欲望、とりわけ素朴な欲望は、獲得に力がいる。私は「感情」の力をここで賛美したい。われわれの感情とは、人生の要求に立ち向かわさせてくれるエネルギーである。

 

2023.12.17

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です