今晩死ぬように眠ることだけを考えて生きよ[395/1000]

自分の心の深くをみつめていると、その究極では死にたいと思ってるんじゃないかと、しばしば感じることがある。これは、自殺願望のような消極的なものではない。あえて積極的に言い換えるなら、魂的に生きたい、野性に生きたいという、人間の叫びともいえる。しかし、ニュアンスとしては、生きたいというよりも、死にたいというほうが正確なのである。その心象風景は、いつも書いているように、砂漠の果てのオアシスを目指しながら、日照りの中、ついにはぶっ倒れて、渇いたまま死んでいくというものである。この肉体の限界の中で、魂から湧き上がる静かで深い歓びに充足し、自然と笑みがこぼれ、すべての生命を使い果たしたように死んでいくのである。

 

死にたいと思うのは、日々ちっとも死にきれていないからであろう。安全地帯にこもり、楽なほうに逃げて、怠慢であり、その日に与えられたエネルギーを使い果たすことなく、1日を終えているからである。この余剰エネルギーが積もるほど人間はダメになっていくのではないか。余剰エネルギーは、悪さをする。余剰エネルギーが作りだす感情は、恥や罪悪や後悔である。負の感情を抱えながら、つまらないことを永遠と考えるようになる。それは、死にきることができなかった今日の生命力の余剰分が、ほんとうはもっと死ぬように生きなければならないと、自分の愚かさを気づかせようとしているのである。負の感情やつまらない考えは、そのまま受け取ってはならない。それが発生すること自体が、問題なのである。

 

私が遁世に憧れるのは、第一に死ぬためである。社会には人間を生かすためのものに溢れ、怠慢な私の弱い部分が、生に落ち着こうとする。それらを物理的に断ち切りたく、文明から離れた大自然で暮らすことに憧れるのだ。しかし、それもまた今日の言い訳なのかもしれない。結局、どこにいても自分次第であるし、死にたいなどと言うことは、幸福の甘えであろう。やるべきことは一つである。今日、天から与えられたエネルギーを、余すことなくすべて使い果たすこと。明日のことは考えなくてもいい。今日だけのことを考える。とりあえず、今晩眠りにつくときに、死ぬように眠れることだけを考えるのだ。さあ、太陽は昇った。一日を始めよう。

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