最低限の暮らしの心地よさ。必要以上の生活に感じる心身不一致[191/1000]

こうなることは分かっていた。最低限の物と最小限の便利さの中で生きていると、必要以上に物を持つことや、必要以上に快適な場所で暮らすことに居心地の悪さをおぼえるようになる。肉体は楽ではあるが、物が増え、便利になるほどに、魂が吸い取られ、失われていく感覚がある。だから極寒であろうと、最低限の温もりと快適さの中で暮らしたこの諏訪湖での3か月は、垂直性のあるいい時間だった。

 

どこまでが必要でどこからが必要ではないか、人それぞれの基準がある。物に関しても食に関しても娯楽に関しても、今の私のハードルは世間一般と比べてもかなり低いように思う。こうして実家に帰ってきても、すべてが過分に感じてしまう。溢れた分は私にとって「不要」であり、不要を半強制的に受け取ることに、心身の不一致を感じている。(お祝いのご馳走はまた別である)

 

必要以上に自分を甘やかすことは避けたい。目指すべきは自分を満たすことではなく、自分を死なせること。コップから溢れた水を他者に注ぐのではなく、自分のコップそのものを無くしてしまえば自他の隔たりはなくなると信じている。必要を超えた「過分」を受け取ることは、心身の不一致感に加え、不本意な形で肉体を生かし自分を大きくする。昨夕の瞑想でも既にそれを感じていた。今一番恐れていることは、自分が死ねなくなることだ。自分の器が大事になり過ぎて、傷つけられなくなるような生き方を今は望んでいない。

 

結局実家に帰ってきても、温かい布団で寝ることはなく、いつものように車に向かい、寝袋で寝起きする。暖から遠ざかり寒さに身を浸していたほうが、意識ははっきりする。一度くらい温かい布団の中で眠ってもいいだろうと悪魔は囁き、その他にも誘惑は尽きない。すべてを排除できる自信はなく、既に昨日も冷蔵庫にあったワッフルに手が伸びた。なるべく外気に触れ、食も暮らしも最低限を保ちたいと思うが、あとはどれだけ葉隠の魂と共鳴できるかにかかっている。

 

いつも、葉隠を思い出されたい。生きる方にはいつも理由がつく。自分が都合のいいように最もらしい理由などいくらでも生まれてしまう。生きて無様になるくらいなら、問答無用で、死ぬ方を選んでいけと葉隠は教えた。「二つ二つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり」である。実家にいるうちは、葉隠のこの言葉に助けられたい。

 

精神修養 #102 (2h/212h)

何を恋い慕い生きるかである。泣くこともせず、感謝の言葉を口にすることもせず、不仕合わせのときにも手を差し伸べてくれた恩を思いつづければ、感謝の心は恩返しになっていくはずだ。

恋い慕う対象を見失いそうなときは、恩を与えてもらった人間に尽くすことを思い出されたい。恩を与えてくれた人間を思い、その人間のために生きればいいのではないか。

恩にはいつも損得勘定を超えたものがあった。つまり恩は天と繋がっており自然の法でもある。だから恩返しに生きることは自然の法を纏うことに繋がる。

 

[夕の瞑想]

諏訪湖を離れ、実家に到着した。生の衝動に肉体が傾く中、寒さの中での瞑想は死に向かえる貴重な時間となりそうだ。既に肉体が生に傾いた状態の瞑想はいつも以上に困難だった。

寒さに耐え切れなくなる。眠くなる。怠けたくなる。帰ってきてからもなるべく生の衝動とは距離を置くように心がけていても、環境の影響は大きく既に肉体の適応が始まっている。瞑想だけはいつも以上に入念に死ねるように心掛けよう。

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