恩返しに生きたいならば、ありがとうは言わない約束[192/1000]

古風を好む今は、畳の上でこたつに入り、みかんでも食べながら静かな正月を過ごしたいと思うが、母はイギリスに強い憧れをもっており、実家は西洋風で畳はない。ガーデニングを趣味とする母が、庭にオブジェになるような物置小屋と隣家との間に塀を作ってほしいというので、年末から正月にかけて労働の日々になりそうだ。

大して親孝行などしてこなかった人間であるので、こうして奉仕の機会を与えてもらえるのはかえって有難い。しかし両親は私に金がないことを知っており、労働の対価だと理由をつけてはいつも金を渡そうとしてくる。こちらからすれば冗談ではない。金をもらっては奉仕にならない。私はいらないと言い放つが、勝負はいつも五分といったところで、押しに負けて金を受け取らされることもあれば、受け取らずにいられることもあった。

 

葉隠に四誓願というものがある。これを毎朝、神と仏に念じれば二人力になると言う。

1.武士道においておくれ取り申すまじき事

2.主君の御用に立つべき事

3.親に孝行仕るべき事

4.大慈悲を起し人の為になるべき事

 

仕える存在があることは、有難いことだと感じる。与えてもらった恩を返すことは、そのまま生きる理由となるからだ。親に、妻子に、世話になった人に、友に、同志に恩を返すことは、生きる理由としては十分なものに思う。クリスマスに参加したミサで司祭の説教にあった「妻子のために生きる人生は、自分のために生きる人生よりもいいものだ」という話が思い出される。恩に着ることと、恩を返すことがなくなるほど、誰のために生きていいのか分からなくなる。

 

感謝、感謝とうるさい世の中であるが、葉隠を知ってからは、ありがとうという言葉は極力封印するように心がける。ありがとうと言葉にすれば、感謝のエネルギーは自己の内から浄化される。その場は幸せなエネルギーで満たされるかもしれないが、エネルギー上のやり取りはこれで完了される。嬉しくて涙を流したときに誓った気持ちも、涙にすべてのエネルギーが昇華されれば、後々不義理となる経験が過去あった。

涙を流すことは、自分勝手である。嬉し涙はいいものであると思うが、本当に義理堅くありたいのであれば、涙はこらえられるべきだ。ぐっとこらえた気持ちを自己の内に圧縮させ、恩返しとして行動で昇華されたい。忍ぶ恋と同じで、耐えねば感謝は恩とならない。

 

感謝の気持ちは伝えない代わりに礼を述べる。受け取った恩が大きなものであるほどなおさらである。これは葉隠を知ってからの心掛けだった。言葉を放つにはいつもエネルギーがいる。言葉を制する者はエネルギーを制していく。葉隠は行動哲学。行動に昇華したいならば言葉は少なくていい。行動の中枢に恩返しを置くならば、ありがとうは言わない約束。

 

精神修養 #103 (2h/214h)

こうなることは分かっていた。肉体は生の方に向かう。快適な暖を知ってしまえば、肉体は楽に吸い込まれ、瞑想も困難となる。肉体は寒さから逃れようとし、暖を向かっていく。怠惰の情に襲われ、肉体も眠ろうとする。環境が水平的になるほど、肉体も水平に流れる。ここでの精神修養はいつも以上に困難であるが、だからこその精神修養なのだろう。

 

[夕の瞑想]

・「生きるか死ぬかで迷ったら死ぬこと。食うか食わぬかで迷ったら食わぬこと。」という葉隠の言葉が思い出される。

・武士にとっての戦は、奉公であり、その命は常に天から下されたものであった。主に仕えていながら、天命に生きていたといえる。

・人を斬ることも斬られることもない現代人にとっての戦とは何か。

・現代人が武士のような生き様を恋焦がれるなら、天命にしたがって生きることではないか。直接に仕える主も、戦もない今日であるが、天命は変わらず存在しているではないか。

・僧ではない以上、瞑想をすることが目的となってはならない。あくまで瞑想は死身となる手段に過ぎず、目的は日々死に向かっていくことにある。大切なことである故、何度も思い出されたい。

・僧にも俗にもならなければいったい何者なのだ。中途半端は逆に見苦しくなる故、心に留めておきたい。

・葉隠が行動哲学という重みを改めて感じる。瞑想では不十分であり、常に死に向かう行動が求められている。

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