命を奉げられる対象を欲している[193/1000]

母に頼まれ、3日がかりでつくっていた物置小屋が完成した。これでひとまず落ち着いた年末を迎えられると思いたいところだが、明日から塀づくりが始まる。自分の時間はないが、自分を奉げる時間はある。こうして身を捧げていると、長いこと過ごしてきた諏訪湖での一人の時間が、どれだけ自分のためのものであったかを痛感する。

独り身は自由を謳歌しているように見えるが、自分のために時間を注げば注ぐほど、見苦しくなってしまう苦悩があるように思う。

 

佛道修行にて生死を離れ、詩歌を玩(もてあそ)び、風雅を好みなどする事、よき事の様に思うなり。これは、我が一心を安楽して、心を浄く持つばかりなり。隠居人・出家など世外者はよし。奉公人には第一の禁物。かくのごとき者は皆腰抜けなり。

(中略)

世間に無学文盲にして奉公一篇に精を入れ、又は妻子以下の育てに心懸ける者は、一生見事に暮らすなり。奉公人にてはありながら、座禅を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に異風にする人は、多分身上持ちそこない、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家・隠者にもあらずして、見苦しき有様なり。

 

葉隠のこの言葉を読んだとき、耳が痛くなった。

隠居人でも出家人でもないくせに、瞑想で心を清くすることばかりして、安楽に留まっているなら、お前は腰抜けだ。そのまま過ごしていれば、妻子を持つことも、俗に染まることも僧になることもなく、中途半端な人間として見苦しくなるぞ。武士であるなら、瞑想して心を清くすることよりも、家職に努めて、行動して、死に向かっていけ、と葉隠は言っているのだと思う。

 

耳が痛くなったのは、俗にも僧にもならない中途半端な生き方になっている心当たりがあったからだった。

一人になるほど、浮世離れする癖がある。諏訪湖での孤独の時間は魂の鍛錬に大きく貢献した。浮世離れして何が悪いと反発したくもなるが、坊さんでも、俗の人間でもない中途半端さには、事実心残りがあり、すっきりしないものを感じていた。それを見苦しいと言われれば、悔しいが認めざるを得ない。

 

命を奉げられる対象を欲している。できることなら妻帯したいと思うこともあるが、どうなのだろう。ふらふら生きる男は、女と出会うことで落ち着くのではないか。死身となるだけではフィフティー、もうフィフティーは自分を奉げる対象のために生きることにある。死身が手段ではなく目的となったとき、武士は武士ではなく、俗にも僧にもない中途半端で見苦しい存在となるのだと思う。

それはつまり、刀を大事に手入れしながら、人を斬ることをせず、大事にしまい続けているような状態なんだろう。手入れすることが目的となれば、刀はただの飾りである。斬るべきところで斬れなければ、一体何をしているのだ。

 

俗っぽくなるとか、僧っぽくなるとか、本当はどうだっていいのかもしれない。斬るか斬らないか、やるかやらないか、死ねるか死ねないか。いつもDo or Notだけが問われている。二択の場面で死を選んで、行動と結果を得ることだけが、葉隠の魂を喜ばせる。

座禅は死身となる手段である以上、今後も辞めることはないが、それだけでは不十分であることは肝に銘じなければならない。結婚も考えるが、私のような俗に足が着いていないような人間にできるものかといつも頭を抱える。

 

精神修養 #104 (2h/216h)

実家に帰って食の量と質が変化したことにより、内臓の動き方に変化が生まれている。身体が低血糖状態になっていて、胃の深いところにある気持ち悪い感覚が、静かに下に降りていくのを感じていた。首が痛く、頭痛もする。住も食も満たされないくらいが、肉体の生命力は盛んになる。

生きるか死ぬかでは死ぬこと、食うか食わぬかでは食わぬこと。何をどれだけ食べるかは、霊性にかかわる問題でもある。食は自分を生かすものなのか、自分を満たすものなのかによって、食中の態度も、食後の満たされ方も変わる。食に命を感じるときほど、食べた後は元気になる。

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