三ヵ月の孤独に立ち向かえのは葉隠魂のおかげだった[187/1000]

真っ白なまだ誰にも踏まれていないこの雪のようにただ透明でいたい。一杯の白湯の温もりに心が還っていく。世界に光が照らされる前の、薄暗い諏訪湖の畔をしばらく歩いた後、かじかんだ手を白湯を注いだ陶器で温める。こんな日々もいよいよ、今日明日で最後になる。

 

まだ終わったわけではないが、この諏訪湖の冬に思い続けていたことを一言で表せば「透明になりたい」だった。ずっと透明な存在に恋焦がれ、透明になる術を求め、透明になるためにこの身を捨て去りたかった。いつも自然に心を奪われてきたのは優しさと厳しさの中に透明感があったからだった。冬の凍てつく空気が好きになったのは透明だからだった。葉隠に感動して影響を受けたのは人間の生が限りなく透明に生きる道が記されていたからだった。

 

透明になることで自然とも動物とも宇宙とも一体になれる気がした。宇宙のエネルギーにすぎない幸せも不幸も、自分が透明になれば、自分を通り抜けていく。透明になるとは自分のものだと思っているものを自分のものではないことを知ることだった。不幸だけを手放して、幸せだけを自分のものにしようとするなら透明にはならない。不透明のまま法を謳えば胡散臭くなるのは、法は透明の中にあるからだった。

 

西郷隆盛は法は自然のものであると言った。海や山や空と同じような自然である。透明となって自然とも動物とも宇宙とも一体になることは、愛や友情といった法と一体になることを意味する。金剛般若経の詩の一句にある「法を身とする」とは、自分が透明になることだ。自分が自然と一体になることはあっても、その逆はないのだと思う。

 

葉隠の示した道は男らしい実践でもあった。昨今の幸せだけは自分のものにして、不幸だけは手放すという都合のいい風潮に、自分を死なせるという荒々しいやり方で風穴を開けてくれた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」「二つ二つのうち早く死ぬ方に片付くばかりなり」「毎朝毎夕改めては死に改めては死に常住死身となる」「必死の観念一日仕切りなるべし」といった葉隠の言葉のように、日々死ねる準備をして、決断を迫られたときは死ねるほうに向かっていくことが、自分が透明になる実践だった。

葉隠のおかげで、孤独に潰されそうな時も、寒さに凍える時も、恥を感じて不仕合わせに苦しむ時も、死ねていると思えば魂は生きられた。湯に浸からず、暖もなく、身体を温めるのは白湯と玄米くらいであったが、風邪をひくことなく元気でいられたのは、葉隠の魂を持って立ち向かえていた証だと胸を張りたい。

探求と実践の道はつづくが、ひとまず今日明日諏訪湖を最後にして、振り返りとする。

 

精神修養 #98 (2h/204h)

・死身の状態は空っぽである。

・「法を身とする」というより、法は孤独な器に流れ込んでくるものなのだろうか→自分が透明となって自然と一体になること。

・凍てつく寒さで意識がはっきりする。心身は痛いが、真冬が好きになった。

・絶対積極の精神とは、気のベクトルを外側に向けることである。

・「病は気から」というように、気のベクトルが内側を向けば、気の流れに乗って、冷気は身体に染みこんでくる。

・断食も行水も、気のベクトルが外側に働いている。そこに内側に働こうとする負荷がかかることで、気の鍛錬が行われ、結果的に人を強くする。

・死身の状態には気の作用がないと思う。山にいても鹿に気配を悟られないような感じ。

・だから死身のときは、冷気は身体に染みこんでくるのが分かる。ただそれが問題にならないのが死身である。そのままの感覚がある。そんな状態じゃないかな。

・死身となるだけではフィフティー、もうフィフティーは対象に恋焦がれること。最初のフィフティーで透明となり、次のフィフティーで綺麗な赤に染まっていく。

・恋焦がれて生きることで気は外側に作用する。これが中村天風のいう絶対積極の精神を、葉隠なりに体現したものだと思う。

・恋が忍ばれるほどに気の圧力は高まっていく。恋忍ぶことはガソリンのようなもの。生きるエネルギーそのものとなる。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

詳細はこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です